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礼拝メッセージより
呪い
なんだかよく分からん話しだ。いちじくの話しがあったり、神殿の話しがあったり、またいちじくの話しになったり、そうかと思うと祈りの話しになったり。訳が分からんという気持ちが大きい。
イエスがいちじくの木に実がなってなかったので呪ったら、次の日には枯れていたなんてことは本当にあったんだろうか。
このことからクリスチャンにはならないと言った作家がいたそうだけれど、これはこの通りのことが本当にあったことじゃないんだろうと思う。ぶどうとかいちじくというのは、よくユダヤ人を象徴するものとして登場するみたいで、そのいちじくの実がなっていないというのは、ユダヤ人たちが神の期待するような人間にならなかったということを言っているのではないかと思う。
そしてそのユダヤ人たちがどのように実を結ばなかったのかということが、そのすぐ後の神殿の状況として書かれているのではないかと思う。
ちゃぶ台返し
神殿の境内には売り買いしている人たち、両替人や鳩を売る者がいたことが書かれている。
神殿の境内に「異邦人の庭」というのが神殿の周りを取り囲むようにあり、そこに許可を受けた商人、動物商、両替屋などがいたそうだ。異邦人の庭の大きさは450m×300mくらいだったそうだ。
商人はそこでぶどう酒や犠牲のための動物など祭儀に必要なものを売っていた。両替人は外国の貨幣を神殿奉納に指定されていた古代ヘブライのシケルと交換した。外国に移住していた人たちにはヘブライのお金はあまり持っていないだろうし、それも昔のお金となるとそれを用意するのは大変だっただろうから、そういう両替人がいることで助かっていたのかもしれない。また犠牲のための動物を遠くから持ってくるのも大変で、神殿のすぐそばで買うことができれば面倒もなくて都合がよかったのだろう。そして貧しい庶民が犠牲のために買っていたのが鳩だったそうだ。
商人はそれでもうけていたわけだが、そこで商売をする許可を神殿からもらってやっていたんだろうから、商人と神殿の祭司とのよからぬ関係もあったのかもしれない。
イエスはその神殿でちゃぶ台返しをしたようだ。
そこでイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と書いてあるじゃないかという。旧約聖書のイザヤ書の56:7に「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」という言葉があって、その言葉を引用しているようだ。
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いてイエスをどう殺そうかと相談したと書いてある。イエスの言葉が図星だったということだろう。痛いところを突かれて頭に来たといったことかもしれない。
どこの馬の骨とも知れない若造が、自分たちの利権に対して文句を言ってきたわけだ。このまま何事もなければずっと食うに困ることはない、或いはこのまま良い暮らしが出来る、そんな組織を作ってきたわけだ。余計なことを言われたらそんな自分たちの暮らしが脅かされるし、ユダヤ人社会全体を脅かすようなことでもあったのだろう。そんな奴を放っておけるわけがない、ということだったようだ。
祈りの家
イエスは「わたしの家はすべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」というイザヤ書の言葉を引用し、なのにあなたたちはそれを強盗の巣にしてしまったと言った。
神殿は祈りの家だ、と言っている。ここでは神殿を全面的に認めるような感じがするけれどどうなんだろう。その後13章では、弟子が神殿を見て、なんとすばらしい建物でしょうと言った時には、この建物は完全に破壊されるだろうなんて話しをしている。
ルカによる福音書では、イエスが12歳の時に過越祭の時にエルサレムに来て、家族と離れ一人神殿に残っていたときに、神殿を自分の父の家にいるのは当たり前だ、なんて言ったことも書かれてはいるけれど、イエスは神殿をどのように思っていたんだろうか。神殿で商売をしていることだけを批判しているんだろうか。それとも神殿で犠牲を献げることで赦されるという神殿そのものを批判しているんだろうか。
祈り
翌朝いちじくの木が枯れているという話しになるけれど、その後は祈りの話しになっている。ここは前の日のちゃぶ台返しについての説明とか、神殿はどうあるべきかとか、あるいはそもそも神殿は必要なのかどうかについて話してほしかったという気がする。
神殿が祈りの家であるべきという話しだったのでこういう話しになっているのだろうと思うけれど、祈りの話しは本当はもっと別の機会に話されたことだったんじゃないかなと思う。
それはさておき、ここでイエスは少しも疑わず自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる、なんて言っている。
本当かいな。ちょっとどうでも良い話しだけれど、うちの実家は愛媛県の島を除くと一番北にある広島に近い波方町にある。家の北側、つまり広島側は低い山になっていて、その陰に家が立っている。
その頃、RCCのテレビで、週末の夜中だったと思うけれど、ダイヤモンドサッカーというのを放送していて、それを見たくてアンテナを回して広島側に向けて見たりしてたけれど、ノイズだらけの中を見ていた。
だから山が海に飛び込むというのを初めて読んだ時、本当に山が海に飛び込めばいいなと思って、山に向かって海に飛び込めと言った。けれど飛び込まなかった。少しも疑わず自分の言うとおりになると信じていたかと言われたら、実際は全然そんなことないし、本当にそんなことになったらその辺りの家はどうなるんだろうなんて思いつつでもあった。
信仰が足りないからなのだろうかとか、疑いを持っているからだろうかとか思わないでもなかったけれど、やっぱり流石にそんなことはないよなと思った。
だいぶ後になってキルケゴールという人が、祈りとは神を変えることではなく、祈る者が変えられることだと言ったということを聞いた。
そうすると祈りとは、あれとこれとそれをどうかしてください、と神の気持ちを動かして自分の願いを叶えて貰うことではなく、祈る事で神の声を聞き、祈る者の気持ちや行動が変えられていく、それこそが祈りということになる。
イエスが祈りの家と言ったのは、神殿で献げ物をして罪を赦してもらうことよりも、何よりも神に祈ること、神の声を聞くことこそが大事なのだと言いたかったのではないかと思う。
イエスはきっと、祈ろうよ神の声を聞こうよと言いたかったんじゃないかと思う。献げ物が良い物かどうか、傷があったかなかったかなんてことを心配するんじゃなくて、兎に角祈ろうよ、神に会おうよ、神の声を聞こうよ、イエスはそう言っているような気がする。
やっぱりこんな自分では駄目だ、こんな自分では愛されないと思う、もっと立派にならないと、もっと真剣にならないと神も認めてくれないと思う、そんな思いを一掃する、そのためのちゃぶ台返しだったのではないかなと思う。
何を献げるかなんて問題じゃない、信仰の大きさなんて問題じゃない、どんな人間かなんて問題じゃない、何もないあなたが大事なのだ、そのままのあながた大切なのだ、そのままのあなたを愛している、そんな神の声をしっかりと聞くこと、それこそが大事なのだ、それこそが祈りだ、そんな祈りこそが大切なのだ、イエスはそう言いたかったんじゃないのかなと思う。