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礼拝メッセージより
どんより
先週ネットで、3歳の娘を1週間以上置き去りにして死なせたという人の裁判があったというニュースを見た。
ネットでそのことを見たけれど、実はその人自身も自分の母親からひどい虐待を受けていたそうで、母親が逮捕されたこともあったそうだ。その後は養護施設で過ごしたけれど、周りの人の顔色を伺って、本心は言わないでいたそうだ。
結局周りの人間を信頼することができずに、その人たちの機嫌を損ねると何をされるか分からないというような気持ちでいたのかなと思う。だから周りからの誘いを断ることもできないし、自分が大変になった時にまわりの人に助けを求めることもできないでいたようだった。
そのニュースを読みながら、結構自分と似ているかもと思った。人に頼まれごとをされたときに無碍に断ると悪い気がする、というか断ることで相手との関係が崩れるんじゃないかと心配になるし、逆に人にものを頼むのもすごく苦手だ。そんなこともあって、この記事を見てどんよりとしていた。
そうしたら昨日、時々聞いたいてラジオのパーソナリティの人が一昨日コロナで亡くなったというニュースを車の中で聞いて、思わず「えっ」と言っていた。一度送ったメールを読んで貰ったこともあって、ちょっとショックだった。コロナで何人亡くなったなんてニュースを毎日聞いてたけれど、初めて現実味が湧いてきたというか、本当にそういうことあるんだと思った。そんなこんなで先週の途中から変な気分で過ごしている。
議論
14節に一同がほかの弟子たちのところへ来てみると、とあるが、その前の所を見ると、イエスとペトロとヤコブとヨハネの3人の弟子が山へ登っていたことが書かれていて、その山から下りてきたということのようだ。そうすると他の弟子たちが律法学者と議論していた。律法学者が優勢だったのかな。
そこにイエス登場。15節で群衆は驚いたと書いている。何を驚いたのか。
イエスの質問に群衆の中のある者が答えた。16-18「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」。これはてんかんの症状に似ているそうだ。当時はこういうことは悪霊のしわざと考えられていた。
話しの内容からすると、このある者とは父親のようだ。どうしてある者と言われているんだろうか。
父親は弟子たちに霊を追い出してくれるように願ったが出来なかった。弟子たちに期待したのに裏切られたと言っているようだ。
かつてイエスは弟子たちを「宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせた」(3:15)と書いてある。それなのに、彼らはその役を果たせなかった。
弟子たちは自分の力の限界を感じているのだろう。あるいは自信をもって悪霊を追い出そうとしたのに、それができず戸惑い、混乱していたのかもしれない。彼らはそこで議論していたというのだ。何を議論していたのだろう。
てんかん?
19節「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」。
イエスは不信仰を嘆いているようだ。がしかし嘆きつつ、その世の中に乗り込んで来る。世の不信仰を嘆く、しかし弟子たちを責めることはない。そしてイエスと霊との対決が始まる。20節「人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。」
できれば
イエスは父親に子どもの病歴を尋ねる。父親は不幸な苦しい過去を告白する。そして「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と悲しい過去を話す。
父親は子どもを治すために小さい頃からあらゆる手段を講じてきたのであろう。しかし、ことごとく裏切られてきたのだろう。
そんな時人はどんな気持ちになるのだろう。期待すればするほど、そうならなかった時の落胆は大きくなる。だから初めからあまり期待しないようになっていったのではないか。「できるならば」と思うことで裏切られたときの落胆をなるべく小さくしようとしたのではないか。ごくごく自然な成り行きだと思う。
しかしイエスはこの言葉にこだわった。23節「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」何故こんなこと言ったんだろうか。どうして不信仰を戒めるようなことを言うのか。
不信仰を駄目だと言われたら私たちは立つ瀬がない。不信仰の極みでありながら教会に集っているのが現状だ。神を信じきれない、完全に神に任すことのできない面をどこかに持っているのが私たちの実態だろう。願いが叶わないときのショックを和らげるためにできるならばと言うことはダメなことなんだろうか。そのことをイエスは戒めているのだろうか。そう言われても困ってしまう。
もっと近くに
父親はイエスの迫力に押されるかのように、信じますと答えている。
「信じます、不信仰な私をお助けください。」これは変な言葉、矛盾していることばだ。信じます、ということは不信仰ではない。
イエスにかけたい自分と、完全には信じられない自分とが入り交じっている。そんな父親にイエスは問いかける、できればというのかと。信じないのか、と言って一歩を踏み出せない父親に迫っているかのようだ。その迫力に思わず父親は、信じます、と答えたのかもしれない。
「できればと言うのか」、とは不信仰を責めているようにも聞こえるけれど、イエスはもっと私に近づきなさい、もっと近くに寄ってきてほしい、もっと信頼してほしい、もっともっと期待して欲しい、そんな思いの込められている言葉のような気がしている。
29節に、この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ、なんて言葉がある。
悪霊を追い出す方法は聞いていたけれど、それを神に頼むことをしてなかったということなのかな。
僕は祈るのが苦手だ。特に人前で祈るのは大嫌いだ。それに祈るってどういうことなんだろうとずっと考えている。何かあればすぐに祈りましょうというような牧師もいるけれど、すごいなと思う。
最初に子どもを放置した母親が、誰も信頼できず、誰にも助けを求められなかったという話しをしたけれど、祈らないと言うことは結局は神を信頼してない、安心して神に頼めるという感覚が少ないと言うことかなと思う。
もっと近くにいてほしい、もっと信頼して欲しい、もっと何でも話して欲しい、イエスはそんな思いを持っているような気がしている。
叶うとは限らないけれど、できればなんて水くさいこと言わずに、なんとしてもやってくれと言えばいいんだ、もっと何でも話して欲しい、もっともっと願って欲しい、もっともっと近くにいて欲しい、そんなことを言いたかったんじゃないのかな、という気がしている。