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礼拝メッセージより
心配
一昨年だったかな、雨漏りがしたときに、教会堂の屋上の防水シートの保障が今年で切れると聞かされて、去年は近いうちに外壁の目地をやりかえないといけない、その時に塗装もすれば長持ちするなんてことも聞かされて、そんなメンテナンスの話しは聞いてないよと思いつつ、それ以来心の奥にその事が突き刺さって、時々ちくちく痛むような感じがしている。
先週は牧師会があって、その時にある教会で数年前に塗装し直すのに400万円かかったなんて話しを聞いて、一体うちの教会は何百万円かかるのかとか、いろんな面倒な手続きがあるんだろうなとかと思って、ゆっくりと眠れない夜を過ごしている。
見積もりを出してもらった訳でもないし、心配したってどうしようもないから今はなるべく考えないようにしようと思ってたら、先日20年目の点検の案内が届いたり、昨日はリフォームの関係の人が、担当が変わりましたと挨拶に来て、現実に引き戻されてしまっている。
今日の聖書は終末、世の終わりの話しみたいだけれど、世の終わりがもうすぐ来るならメンテナンスもしなくていいし、お金の心配も、他のいろんな心配もしなくていいのになと思った。
世の終わり
マルコによる福音書の13章は小黙示録という言い方をするそうで、終末には、つまり世の終わりの時にはこういうことが起こるだろうというようなことが書かれている。偽キリストが現れ、戦争の騒ぎがおこり、地震があり、飢饉が起こると書かれている。そしてイエスの弟子たちが迫害に遭い、憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら逃げなさいなんてことも言われている。
また24節以下を見ると、終わりの日には、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる、そして人の子が力と栄光を帯びて雲に乗ってやってくる、つまりキリストが再びやってくるなんてことが書いてある。
それがいつなのかは誰も知らない、と言うのが今日の聖書箇所になる。
昔は天変地異は神の仕業であると考えられていて、自然災害も神の裁きだというような考えだったようだ。そして世の終わりにはあらゆるものが崩れ去ってしまい、神の裁きがあるというようなイメージなんだろうなと思う。
昔ノストラダムスの大予言というのが流行ったことがあって、ノストラダムスという人が1999年7月に人類が滅亡するという予言をしている、なんて話しをテレビでもよくしていた。僕は子供の頃は今よりも大分純粋というか単純だったので、テレビの言うことはみんな本当のことだと思っていた。1999年になった頃には40歳も近づいていたので、流石にそんな予言は実際にはないだろうと思っていたけれど。
でも時々思い出したように、終末のこと、世の終わりのことが話題になることがある。何年何月何日に世の終わりが来るという風に言う牧師がいたなんて話しも聞いたことがある。
そういうときは、たいがい、もうすぐ終わりなんだから、今のうちによいことをしておかなければということで、財産を売って献金をするように、なんていう話になることが多いように思う。終わりがくるといって恐怖心をあおっておけばお金を集めるのには都合がいいのかもしれないなんて思ったりもする。勿論お金のためよりも、本当に世の終わりが来ると思っているんだろうけれど。
旧約聖書にも似たような世の終わりのことが書かれているそうで、ユダヤ人たちにとっては馴染みのある話しでもあるのだろう。
世の終わりが来るということはなんだか恐いことでもあるようだけれど、苦しい大変な思いをしている人にとっては、その苦しみが終わるということでもあって、それは神の裁きの時でもあるかもしれないけれど、救いの時でもあるのだろうと思う。苦しい時を過ごしている人にとっては希望にもつながることだろうと思う。
神殿
そもそもどこから世の終わりの話しになったのかということが13章の始めに書いてある。
『「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」』(マルコによる福音書13:1-2)
そもそも神殿が崩れ去るときがやってくるという話しだったのが、その後オリーブ山で神殿の方を向いているときに、それはいつなのかという話しになって終末の話しになっていったというわけだ。
神殿はユダヤ人にとっては神とのつながりを持つ唯一の場所であり、立派な神殿があることは神の祝福があるという目に見える象徴みたいなものだったようだ。だからイエスの弟子の一人が、なんとすばらしい建物でしょうと言ったように、立派な神殿があることはユダヤ人にとっては誇りでもあり、それが神との確かなつながりを持っているという安心材料でもあったのだろう。
しかしイエスはこの神殿は徹底的に破壊されるだろうなんてことを言った訳だ。そして神殿だけではなく、やがて太陽も月も暗くなり星は空から落ち、天体は揺り動かされる、なんてことも言う。実際その時の神殿は紀元70年位にローマによって破壊されてしまったそうだ。太陽もやがては、と言っても何十億年か後らしいけれど、燃え尽きて暗くなり、そうすると月も自分では光っていないので暗くなり、その時には地球は凍り付いてしまうようだ。その前に太陽が大きくなって燃え尽きるなんて話しも聞くけれど。
兎に角、イエスは見えるものはやがてはみんな崩れ去ると言っているのだと思う。立派な神殿も太陽も終わりがくる、そしてこの世も終わりが来るということなんだろうと思う。
また人間にも終わりがやってくる。誰もがやがては死を迎える。それこそ今日か明日か、あるいはずっと先は私たちには分からないけれど、私たちは誰もがやがて死を迎える。
自分の死は自分にとっては世の終わりに等しいようなものだろうと思う。その先に何が待ち構えているのか、私たちには分からない。分からないと不安になるけれど、分からなくても任せる相手がいるならば安心だ。そして私たちにはすべてを託すことができる相手がいる。
見えないものに
その私たちに告げられているイエスの言葉は、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコによる福音書13:31)だ。
立派な建物があることで安心する、いっぱいお金があることで安心するという気持ちはよく分かる気がする。お金がないことは心配の種だ。
でもそんな見えるものはやがては崩れ去ってしまうものだ。終わりがあるものだ。だから、そういうものに希望を持つのではなく、終わりのない滅びないもの、つまりイエスの言葉にこそ希望を持つようにと言われているように思う。
今日の聖書箇所は目を覚ましていなさいと書いてある。眠っているのを主人にみつからないように目を覚ましていなさいと言われているようだけれど、見つかったらどうなるんだろうかと思った。
似たような話しが14章に出てくる。ゲツセマネでイエスが祈る時に弟子のペトロとヤコブとヨハネに目を覚ましていなさいと言ったけれど弟子たちが眠ってしまったなんて話しがある。しかしイエスはその時は、「立て、行こう。」と言っていて、見捨てるわけではなく一緒に行っている。
目を覚ましているというのは、決して滅びないイエスの言葉を聞き続けていくこと、イエスの言葉を握りしめていくということじゃないのかなと思う。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二4:18)
過ぎ去っていく見えるものにではなく、見えないもの、決して滅びないイエスの言葉に目を注いでいこう、イエスの言葉こそしっかりと握りしめていこうと思った。私たちをそのままに愛しているという言葉、そして自分を愛するように互いに愛し合いなさいという言葉、そのイエスの言葉をしっかりと握りしめていこうと思った。