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礼拝メッセージより
eight days a week
なんていうビートルズの歌があった。一週間に八日愛するという歌らしいけれど。
先週のメッセージで、イエスの母や兄弟たちがイエスがおかしくなったと思って取り押さえに来た時の話しをした。身内がおかしくなったら恥ずかしくて座敷牢にでも閉じ込めて隠しておきたいと思っても不思議ではない。でも家族がやってきたと知ったイエスは自分の周りに集まっている群衆のことを自分の家族だと宣言したという話しをした。血縁関係を越える新しいつながりを持つという覚悟を持っての発言だったのだろうという話しをしたと思う。
なんだかしっくりこなかったなあと、礼拝が終わってからもメッセージのこと考えていた。その日の夜に、イエスに家族だと言われた群衆って、徴税人だったり、悪霊につかれているとか罪人だと言われている病気を患っている人だったのだろうなと思った。まさに周りから汚れているとされ、毛嫌いされ、除け者にされている人たち、身内の恥さらしと言われるような人たちだったのだろうと思った。そして自分でも自分のことを穀潰しだと、家族のお荷物だと思ってるような人たちだったんだろうなと思った。
そんな人たちのことをイエスは自分の家族だと宣言したんだと思った。僕は自己肯定感の低い人間なので、自分は駄目だとばかり思っているけれど、イエスはこんな人間のことを自分の家族だと言ってくれているんだと思って、やっぱイエスはすごいなと思った。しかしもう一日早く思えよ、俺。
一週間が八日だったら良かったのにと思ったり、何日あってもいっしょかなとも思ったり。
奇跡?
イエスが男だけで五千人の人にパンと魚を食べさせた、という話しは四つの福音書全てに書かれている。それだけよく知られた有名な話しだったのだろう。
昔見た映画では、イエスが祈っていると魚がどんどん沸き上がるように増えていったなんてのがあった。福音書に書かれている文字通りのことが起こったのだろうか。昔は聖書に書かれていることをそのまま信じることこそが信仰だと思っていて、理解できないけれど信じようというか、とにかく信じなきゃいけないと思っていた。
ある時誰かの説教で、少年が自分の持っていたものを捧げたことに感銘を受けて、みんなも自分の持っていた物を差し出したのでみんなが満腹になったんじゃないか、と言っていた、なるほどそうかもしれないと思うようになった。
今回もインターネットでいろんな人の説教を読んだ。理解できないけれど不思議なことが起こったのだ、質量保存の法則というような自然の法則に反するけれどイエスだからできたんだ、というような説教も多かった。というかほとんどがそうだった。確かにそう信じることで希望を持つこともできるのかもしれないけれど、じゃあ信じて祈れば自然の法則に反するようなことをしたのか、できるのかというとやっぱりそうはならないと思う。
ではなぜこんな奇跡物語が聖書に書かれているかというと、この物語を通して言いたいこと、伝えたいことがあるということだろうと思う。
命のパン
6章41節に「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。」と書かれている。これは主の晩餐を思い出させる。
実はこの物語は主の晩餐においてイエスの体であるパンを食べることですべての人が満ち足りる、イエスこそがそんな命のパンなのだということを伝えているのではないかと言っている人がいて、そうかなと思う。
同じ内容の話しがヨハネによる福音書6章にもあるけれど、その話しの少し後の6章35節には「「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」なんていうイエスの言葉がある。
イエスは天からのまことのパン、神のパン、命のパンであって、イエスのもとに来る者は決して飢えることがなく、イエスを信じるものは決して渇くことがない、ということを伝えたい、そのためにこのイエスが5000人を満腹にさせたという物語が福音書に載せられているということなのではないかと思う。
パン屑
マルコの福音書には似たような話しが8章にも出てくる。そこには4千人に食べ物を与えたという話しが出ている。つまり同じような話しが二つあるけれど、数が少し違っている。
6章では5千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させて、残ったパン屑と魚が12籠だった。8章では4千人を七つのパンで満腹させて残ったパン屑が7籠だったと書いてある。残るほど増やさなくてもよかったんじゃね、という気もするけれど、12籠とか7籠ってなんか意味あるんだろうか、それともただの完全数なんだろうかと思っていたら、ある人が説教で面白いことを書いていた。
使徒言行録6章に、イエスの十字架よりしばらく後のことだけれど、弟子の数が増えてきた時にギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に日々の分配のことで苦情が出たという話しがある。そこで12弟子は、自分達が神の言葉をないがしろにして食事の世話をするのは好ましくないとして、霊と知恵に満ちた評判の良い7人を選んで彼らに仕事を任せよう、そして自分達は祈りと御言葉の奉仕に専念することにすると言った、という話しだ。
日々の雑用を担当するために、ステファノやフィリポなど7人の執事を選んだというような話しになっているけれど、実際にはこの7人は説教をしたり聖書の解きあかしをしたと書かれている。実は教会内でヘブライ語を話すグループとギリシャ語を話すグループの対立があって、12弟子がヘブライ語を話すグループの代表であったのに対して、ギリシャ語を話すグループの代表として7人が選ばれたということのようだ。
12籠と7籠というのはその12弟子と7人のことではないかと件の説教では言っていた。残ったパン屑、それはつまり命のパンということになるけれど、イエスはそれを12弟子がリーダーとなっていたヘブライ語を話すグループに託した、そして7人がリーダーとなっているギリシャ語を話すグループにも託したということではないかと言っていた。
また5000人の時はガリラヤ湖の西岸での出来事で、そこはユダヤ人たちの住む地域だったそうで、4000人の時には対岸のガリラヤ湖東岸で、そこは異邦人たちの住む地域だそうだ。イエスはユダヤ人たちも異邦人たちも共に養い満腹させる方だということも伝えているようだ。
当時教会内ではユダヤ人たちは異邦人でも割礼を受けるべきだと主張し、異邦人たちはその必要はないと主張するなど、いろんな意見の相違があったり対立するようなこともあったようだ。けれども、イエスはどちらにも命のパンを与え満腹にし、残ったパン屑をそれぞれの指導者に託したということをこの物語は告げているということのような気がしている。だからマルコによる福音書やマタイによる福音書では、同じような内容の話しを敢えて二つ載せているということなのではないかと思う。
命のパン
空腹ならば食料を調達すればいい、パンを食べればいい。しかし魂が空腹な時はどうすればいいのか。魂の空腹を満たすには魂のパン、命のパンが必要だ。
「私たちの人生の最大の罠は、成功でも、名声でも、権力でもなく、自己を拒否することである。」(ヘンリ・ナウエン/カトリックの司祭、元ハーバード大学の教授)
自己を拒否するとは、こんな自分ではいけない、こんな自分は認められない、こんな自分は誰からも相手にされない、こんな自分は駄目なのだ、と思っているということではないか。そして自分のだらしなさを嘆き、かつての自分を後悔し、自分の運命を呪い、自暴自棄になってしまう。そんな魂の空腹を満たすものを私たちは一体どこで手に入れることが出来るのだろうか。
そんな私たちに、イエスは命のパンを与えてくださるということだ。イエスは5千人を満腹させるような命のパンであるというのだ。
お前はお前でいい、そのお前を愛している、そのままのお前が大好きだ、そのままのお前が大事なのだ、イエスはそう言われているのだと思う。そうやって徹底的に肯定してくれているのだと思う。私たちはそうやって根底から支えられ肯定してもらうことで生きていけるのだと思う。
昔、あなたが大切だと誰かが言ってくれたら、それだけで生きていけるというCMがあったけれど、まさにその通りだと思う。(このCMの話しするのはちょっと小っ恥ずかしい。)
そんなイエスの言葉を聞くこと、心の耳でしっかりと聞くこと、それが命のパンを食べることなんだと思う。
イエスこそ、私たちを生かす、満腹させてくれる命のパンなのだ、だからその命のパンを食べて欲しい、イエスの言葉をしっかり聞いて欲しい、今日の聖書はそのことを伝えようとしているのだと思う。