【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
座敷牢
精神的な病気になった家族を座敷牢に閉じ込めて、社会の目に触れないようにしていたという話しを聞いたことがある。座敷牢をネットで検索したら、少し前に精神疾患のある長女をプレハブ小屋に10年以上閉じ込めて死亡させたという記事が出てきて、それを読んでしんどい気分になった。
自慢の子供だと思えるときには、家の子供がこんなに立派になりましてなんてことを嬉しそうに話すけれども、なにか問題を抱えていたり、恥ずかしいと思えるような状態だったりすると、そのことを隠そうとするという気持ちはわかる。
正気?
31節ではイエスの母と兄弟たちイエスを呼びにきている。すこし前の21節では、イエスの気が変になったから取り押さえにきた、と書いてあるように、イエスがおかしくなったので連れ戻しにきた。うちの息子がおかしなことをはじめてしまった、このままではお家の恥だ、ということなのだろう。それこそ座敷牢に入れておいた方が良いんじゃないかというような考えだったのかなと思う。
そのすぐ後の22節では、律法学者たちが「あの男はベルゼブルに取り憑かれている、悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていると書かれている。当時は精神的な病気は悪霊の仕業であると考えられていたようだけれど、イエスの家族もこの律法学者と同じように考えていて、家族を連れ戻しに来ていたのではないかと思う。
イエスの母と兄弟たちは、人をやってイエスを呼ばせたと書いてある。大勢の人がイエスの周りに座っていたので入っていけなかったのかもしれないけれど、それだけではなく、おかしくなった息子を助長させかねない者たちの中には入っていきたくない、できるだけ関わりたくないという気持ちだったのかなと思う。
家族
そして家族のものが遣わした人が伝言をイエスに伝える。「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを探しておられます」と。
イエスはこれに対して「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と聞きかえす。なんてやつだ、こいつは、となってしまいそうな言葉だ。こんなことを聞いた母や兄弟は腹を立てたか、あるいはやっぱり頭がおかしいと思ったことだろう。群衆だってそう思った人がいたかもしれない。こいつはかなり変なやつだ、折角家族が来ているのに何事だ、常識もない奴なのか、と。
イエスはなぜこんなことを言ったのだろうか。
血は水よりも濃いという言葉がある。血の繋がった血縁者同士の絆は、どんなに深い他人との関係よりも深く強いというたとえだそうだ。血のつながりがあると分かることで途端に身近に感じたり、逆に血のつながりがないと分かると急によそよそしくなるなんて話しも聞く。DNA検査をしてから気持ちが変わるなんて話しがネットにもよく出ている。
わたしの母、わたしの兄弟とは、普通は血の繋がった家族のことを指す言葉だと思う。でもイエスは周りに座っている人々のことを、わたしの母、わたしの兄弟だと言った。血のつながりなど何もない大勢の人たちのことをわたしの母、わたしの兄弟だと言ったというのだ。
ここでイエスは自分の周りにいる人たちのことを自分の家族同然に大事に思っているということだろうと思っていた。私たちも家族を大事にするように、周りの人たちも、特に神の御心を行う教会の人たちも家族と同じように大事にしましょう、というホンワカした話しかと思っていた。
つながり
でも現実には家族だから仲良く出来るとか、家族だからうまくいくとは限らない。聖書にもいろんな家族が出てくるが、特に旧約聖書に出てくる家族、アブラハムもイサクもヤコブも、そしてダビデも、どの家族もいろんな問題を抱えている。そしていろんな問題を抱えつつも、切るに切れない関係が続く、問題を抱えつつも一緒に生きていく、それこそが家族なんだろうなと思う。そうかがエルと、家族となるのは難しいし大変なことだ。
イエスがわたしの母、わたしの兄弟と言ったのは、家族となる、何があっても離さない、そういうつながりを持っていくという宣言なんだろうなと思う。
そういう思いで、イエスは私たちのことも見ているということだと思う。つまり私たちがどんなダメな人間だとしても、どんな落ちぶれたとしても、どんなにおかしくなったとしても、決して離さない、決して見捨てないそんなつながりを持つのだという宣言なのだと思う。
35節神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ、とイエスは言った。急に神の御心を行うなんて注釈がついているのはちょっと作為的な感じがするし、勝手な解釈かもしれないけれど、、、。
御心とはなにか。そこに集まっている人たちがみこころを行っているとするならば、御心とはイエスの言葉を聞いている、ということしかないような気がする。なにか立派なことをすることというよりも、先ずはただイエスの言葉を聞いていること、それは既に御心を行っているということになるのではないか。
そしてイエスの言葉を聞く私たちと、決して離されることのないつながりを持つのだと言ってくれているのだと思う。
兄弟?、姉妹?
教会ってのはそうやってイエスから母だ、兄弟だ、姉妹だと宣言された者たちの集まりということだ。
余談だけど、教会では男性のことを○○兄弟、女性のことを○○姉妹という言い方をすることがあるけれど、それもこの話しから来ているのかなと思う。
新しく教会に来た人が、教会の人はみんな名前の最後が兄とか姉とかつく日とばっかりで変だなと思っていた、なんて話しを聞いたことがある。
僕は名前の後に兄弟、姉妹と付ける言い方は苦手だった。自分が言うには小っ恥ずかしいし、取ってつけたような感じがしてしまっていた。それに人間は男と女と単純に分けられるものでもないということも知って、最近は兄弟、姉妹とは使わなくなった。余談でした。
イエスに、母だ、兄弟だと言われても、私たちはイエスとの血縁関係が生まれるわけではない。
しかしイエスは血縁関係を越える新しいつながりを私たちと持つんだと宣言しているのだと思う。そしてそれは相手のためにはどんな犠牲をも厭わない、何があっても決して見捨てない、そんなつながりを持つと言ってくれているのだと思う。