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礼拝メッセージより
徴税人
2:1を見ると、イエスはカファルナウムに来ているようだ。カファルナウムは国境の町で、そこには通行人から通行税を取る収税所があった。そしてそこに徴税人がいた。徴税人は、当時この地方を支配していたローマ帝国に納める税金を集めていた。異邦人であるローマの手下として働いている徴税人をユダヤ人は嫌っていた。
ユダヤ人は、異邦人とは地獄の釜にくべる燃料として生まれてきた、と思っていたそうだ。だからユダヤ教のファリサイ派の律法学者たちは、異邦人と付き合うなんてことはほとんど考えられないとんでもないことだった。そんな異邦人に支配されているということに対する鬱憤もだいぶ溜まっていたのだろう。異邦人と付き合い、支配者ローマの手先になって、人々に耐えきれないような圧迫を押しつけてくる徴税人を、ユダヤ人たちは極悪人のように見ていたようだ。徴税人たちは、決まった貿易からの取立だけでなく、市民の持つかごや包みを強引に検査しては、自分の見当で税という名目をつけて金銭を取り立てていたそうだ。徴税人は半分強盗をしているようなものだったそうだ。
そういうことから、ユダヤ人たちは徴税人を罪人とみなしていたそうだ。親族の一人が徴税人になると、すべてが同じ仲間と見なされたという。
レビはどうしてそんな徴税人になったのか。恐らく好きでそんな仕事についたわけではなかったのだろう。まわりから白い目で見られる仕事を喜んで続けていたわけではなかったに違いない。ザアカイのように徴税人も頭にでもなれば、儲けは多いかも分からないが、下っぱのものはそれほど多い取り分でもなかったであろう。そんな生活に満足もしていなかったに違いない。食べていくためには何か仕事をしないといけない。けれども景気が悪いとまともな仕事口も少ない、きれいごとばかりでは生きていけない、何も言わずに雇ってくれたのが徴税人だった、ということかもしれない。
しかしそのレビの耳にもイエスの噂は届いていたであろう。預言者か、あるいはメシヤかもしれない男が現れたということで多くの群衆が集まっているような状況だったので、多少なりとも興味も持っていたのではないか。でも自分には関係ない、自分はもうどうにもならない、どうせこのままみんなから嫌われて生きていくしかない、そんな風に思っていたのではないかと思う。
イエスはレビが収税所に座っているのを見かけたと書いてある。イエスが自分の収税所の前にやってきた、しかしレビは座ったままだ。
応答
こんなレビにイエスは声を掛けた「わたしに従いなさい」。
イエスの呼びかけにレビは立ち上がった。イエスの言葉はレビを立ち上がらせた。いろんなしがらみによって立ち上がれずにいたレビの心の中にイエスの言葉は入っていって、レビを立ち上がらせた。
イエスの突然の呼びかけに対して、あるものは網をすて、あるものは父を残し、あるものは商売を捨てて従った。イエスの言葉にはそんな力がある。人を動かす力がある。その力有るイエスの言葉によりレビは立ち上がった。
レビの心はイエスの言葉によって変えられた。固く凍りついていた心が一瞬にして溶けたといったような感じかも。レビにとってイエスの言葉が転機となった。イエスに呼びかけられたこと、イエスに従うことが嬉しくて仕方なかったのだろう。その現れが、イエスを食事に招待したことだった。レビはイエスを食事に招待したが、イエスだけではなく、イエスご一行様みんなを食事に招いたらしい。その食卓には多くの徴税人や罪人もその席についていた。そんな人達をみんな招いて食事をしたみたいだ。
当時はよく客を招いての食事が、戸外や中庭や、見通しのきく屋上でなされたという。ファリサイ派の人達がこれを見て弟子たちに言う。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。ファリサイ派とは、聖書の律法を厳格に守ろうとする人たちだったようだ。彼らにとって神の命令である律法を守ることこそが神に従うことであって、律法にそむき、汚れを持つことは罪だと考えていたようだ。清く正しく生きることで、神の裁きから逃れられると考えていたようだ。そこで律法を字面通りに一所懸命に守ろうとして、逆に律法を守れない人を見下し、汚れた者とされた人たちには近づかないようにしていた。
そんな彼らにとってイエスの行動はとても理解できないものだった。徴税人や罪人とつきあうこと、そんな汚れた者とつきあうことは自分自身も汚れると教えられていた。彼らのいう罪人とは、悪いことをした人ではなく、旧約聖書の律法を守れない人のことだ。律法を守れない者は神の命令を守れない者、だからきよくされていない、汚れた者であると思っていたらしい。仕事柄いちいち事細かな律法を守れない人もいたが、そんな人たちが罪人とされていた。そんな人たちを見下すと同時に、自分達がいかに清く正しいかということを確認していたらしい。
罪人
イエスはファリサイ派の人から罪人とされている人達を招き、そのような人達といつも共にいたようだ。ファリサイ派が同じ席で食事をしてはいけないと非難したものたち、社会からのけものにされていた人達、徴税人などさまざまな理由から罪人とされていた人達と共にいた。当時は病気も罪を持っている者に対する罰であると考えられていたようで、病人も罪人とされていた。
しかしそんなまわりの者から疎外されていた、のけものにされていた、けがらわしいとされていた者たちと、イエスはいつもいっしょにいた。虐げられている者たちと一緒だった。共に生きていた。イエスは彼らと共に食事をする。イエスにとってはそれはごく当たり前の事だったのだろう。
ファリサイ派の人たちにはそんなイエスの行動が理解できなかった。彼らは汚れから離れることで自分たちを清く保とうとしているような気がする。汚れることが神から離れてしまうことになると思っているような気がする。
けれどもイエスは、わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである、というのだ。イエスは罪人を招くために来たというのだ。
人は自分をきよく正しくすることで神に近づこうとする。けれども神自らが罪人を招きにきた、というのだ。
できそこない
昔ある牧師が、罪人とは結局はできそこないだと言っていた。イエスはできそこないを招きに来た、できそこないである私たちを招きにきたと言うのだ。
俺なんてもう駄目だ、どうせ落ちこぼれのできそこないだ、誰にも相手にしてもらえない、碌な人生送れない、そう思っている人のために、その人を招くために私はきた、とイエスは言うのだ。
レビの人生もぼろぼろだったのかもしれない。人生を投げていたのかもしれない、もう楽しいことも嬉しいこともない、誰かといっしょに心から笑うこともない、そんな風に思っていたんじゃないだろうか。
しかしイエスはそんなレビに声を掛け招いたのだ。私に従いなさい、私に従う人生を今から始めなさい、イエスはそう言う。レビの新しい人生はそこからまた始まったのだと思う。だからレビは嬉しくて嬉しくて、みんなを食事に招いたのだろう。
私たちにもイエスは私に従いなさい、と語りかけているのだろう。イエスは私たちがいい人間だから招いているのではない、いい人間になることを条件に招いているのでもない。良い人間になれなんてことも言っていない。
できそこないのダメ人間である私たちを招いている。こんな自分では駄目だ、こんな出来損ないはまともな人生を送れない、そう思っているそんな人間を招くためにイエスはきたと言っている。びっくりだ。