【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
ヨハネ
イエスが伝道を始めたのは洗礼者ヨハネが捕らえられた後だったと書いてある。少し前の所で、イエスがヨハネからバプテスマを受けたことが書かれていて、イエスは最初ヨハネのグループにいたけれども、そのヨハネが捕らえられた後、イエスはそのグループを離れて独自の活動を始めたということかなと思う。
満ちた
またイエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これがイエスの教えの総括ともいうようなことだったようだ。
洗礼者ヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。」と語ったが、イエスはその時が来たと語っているようだ。
イエスは神の国は近づいたと語ったが、神の国とはもともと神の支配ということであった。もちろん神は永遠にすべてのものを支配しているけれども、新しい形で神の支配が始まった。そんな時が来た。
洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを述べ伝えた」(マルコ1:4)とあるように、神の裁きから逃れるために悔い改めてバプテスマを受けるようにと言ってたようだ。ルカ3:7-8には「まむしの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と言うヨハネの言葉もある。
ユダヤ人たちは神は自分達を守り導いてくれる方であるけれども、神の意志に背くようなこと、神の命令に背くようなことをしていると、つまりそれが罪ということなんだろうけれど、そうすると罰を受けることになるという考えを持っているようだ。だから神の意志、それが律法ということになるみたいだけれども、律法を一所懸命に守ろうとしているようだ。けれどもどうしても罪を犯してしまうことがあるので、罪を赦して貰って神との関係を正常に保つために小羊などの生け贄を献げていたようだ。
旧約聖書を見ていると、ユダヤ人たちは基本的に神とはとても恐い存在だと考えているような気がしている。ヨハネもそういう考えの基に活動していたんじゃないかと思う。
悔い改め
イエスも洗礼者ヨハネと同じように「悔い改めよ」と言う。しかしイエスはヨハネと違って「悔い改めて福音を信ぜよ」と言う。福音とは良い知らせという意味だそうで、つまり神さまからの良い知らせを信じなさい、と言う。
悔い改めというと、私が悪うございました、私は罪を犯しました、私は本当に駄目な人間です、ごめんなさい、すいません、と言うことのように思いがちじゃないだろうか。というか、悔いるとか改めるとかいう言葉からするとそう思うよなあ。
でも本来悔い改めとは向きを変えることだそうだ。つまり向きを変えて神の方を向くこと、イエス・キリストの方を向くこと、イエス・キリストを見ることだ。
福音とは、良い知らせとは何か。福音とは結局はイエス・キリストのことだ。
イエスは私たちに神の愛を伝えてくれていると思う。神が徹底的に自分を愛してくれていること、欠けも間違いもいっぱい持っている、そのままの、ありのままの自分を愛してくれていること、徹底的に肯定してくれていること、そのことをイエスは私たちに伝えてくれた。それこそが福音なのだと思う。
招き
イエスの伝道の初めは弟子たちを招くことだった。イエスはまず漁師に声を掛けた。
当時漁師は取税人のように軽蔑されていたそうだ。それがイエスの弟子になった。と言うかイエスが弟子に選んだ。本来は弟子の側がこれぞと思う人に、弟子にしてくれと頼むものなんだそうだ。普通そうだよね。でもイエスは自分の方が弟子を選んでいる。しかもみんなが見下しているような者をイエスは弟子にしたようだ。でもそんなことはイエスの弟子になるための障害ではなかった。むしろイエスはそんな人間をわざわざ選んでいるようである。
何も自慢するものを持っていないような、何の価値もないようなものをわざわざ選んでいる。そんなのを集めてもどうしようもないだろうというような者を真先に選ぶ、それがイエスのやり方だったようだ。
私たちもそんな仕方で選ばれて招かれているんだろうと思う。私たちがふさわしいからとか、すぐれた何かがあるからではない。全くなんにもないような私たちを神は愛してくれて招いてくれている。
すぐに
シモンとアンデレは湖で網を打ってるとき、ヤコブとヨハネは船で網の手入れをしているときだった。イエスは突然語りかける。すると彼らはすぐに従ったようだ。ここ読む時、すぐに従うのはいいけれど、その舟や網はどうしたんだろうかと思ってしまう。網を投げ捨てて従ったようなイメージを持っていたけれどどうだったんだろうか。
またこの福音書の書き方もちょっと変だなと思う。シモンとアンデレがすぐに網を捨てて従った、ってのはまあいいとして、ヤコブとヨハネの時には、イエスが「御覧になるとすぐにお呼びになった」というのはなんだか妙な感じがする。見た途端すぐに声を掛けるなんて。
ある牧師が書いていたけれど、マルコによる福音書には「すぐに」という言葉がいっぱい出てくるそうだ。もしかしたら口癖みたいなものなのかなとも思ったり。それともやっぱりすぐにだったんだろうか。
どれ位すぐなのかは分からないけれど、彼らはすぐに従ったようだ。どうしてそんなことしたんだろうか。イエスを前々から知っていたんだろうか。それとも声を掛けられてイエスを見た瞬間に何か感じるものがあったんだろうか。
その辺りのいきさつは何も書いてないし真相は分からないけれど、兎に角彼らはすぐにイエスに従った。
ということはイエスに従うには何の準備もいらないということだろう。そのままでイエスについていけばいいということだ。弟子たちはついていく内にイエスのことを知っていったんだろうと思う。
そのままの私たちをイエスは招いてくれている、そのままでついてこい、イエスは私たちにもそう語っているのだろう。
聖書のことも神のこともよく分からないし、知らないことや理解できないこともいっぱいあるのにと思う。あるいはこんな自分ではきっとだめだ、もうちょっと元気になってから、もっとちょっと落ち着いてから、もうちょっとかっこよくなってから方がいいんじゃないかとも思う。
でもイエスはそんな私たちについて来なさいと言ってくれているのではないか。今のまま、そのままでついてきなさいと言ってくれているのではないか。
弟子たちがすぐについて行ったように、そんなイエスの声をしっかりと聞いて生きたい、その声に従っていきたい、イエスについていきたいと思う。
イエスは私たちを新しい世界へ招いてくれているのだろう。きっとまだ経験したことのないすばらしい世界へと招いてくれているのだ。