【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
子羊?
神学校にいたのはもう30年ちょっと前になる。その頃はワープロ専用機が一般に出回りだした頃で、神学校の近くの電気屋さんで、富士通のOASYSというワープロを初めて買った。字を書くのが下手なので、ワープロがあれば神学校のレポートも下手な字を書かなくていいというのもあって、神学校の中でもワープロを買ったのは早い方だったと思う。そしたら神学校の教授の奥さんから、本というか冊子というか、それをワープロで清書するバイトを頼まれて、金銭的に助けられたなんてこともあった。その教授一家とは、その頃同じ教会に通っていて、その教会で初めて礼拝の説教をした後に、その教授の奥さんが神学校の中にある個人個人の郵便受けのような棚にメモを入れてくれていて、あなたには説教の才能があるというようなことが書いてあった。説教に行き詰まる時にはよくそのメモのことを思い出す。あのメモが毎週のメッセージを支えてくれているのかもしれないと思う。何の話しをしてるんだ?
で、神学校の何の授業だったか忘れたけれど、新約聖書関係で神学校の生徒が順番に発表する授業があった。発表の資料をみんなに配って発表する授業だったのだが、資料をそのワープロで作って発表していた。発表の内容は全然覚えてないけれど、その中に今日の聖書の中に出てくる「神のこひつじ」という言葉があった。
どうしてその事だけを覚えているかというと、ワープロで「神の子羊」と打っていて、打っていてというかワープロがそう変換していて、こひつじは子供の羊ではなく小さい羊だと指摘されたからだ。それまで子供の羊なのか小さい羊なのかなんて全然意識していなくて、それが間違っていることに全然気付かなかった。その授業でこひつじの字が違うと言われた時も、しばらく何がどう違うのか分からなかった。
面白いことに、と言うか何というか、実は聖書教育にも「子羊」となっているところがあって、あっ違ってると思って喜んでいる。自分が間違った時には完全無欠じゃないと落ち込むくせに、他の人が間違っていると面白がるといういやらしい人間だな思う。でも他の人も間違ってるのを見るとなんだかホッとする。完全無欠な人間と一緒にいると疲れてしまうよね。相手を疲れさせないためにも、これからは不完全有欠であることを良しとする、を目標にしていこうと思って今年を締めくくりたいと思っている。
ついでに、ネットを見ていると、「神の子羊」と書いている説教が結構いっぱいある。その牧師たちは神学校の時に間違わなかったのかな。
洗礼者ヨハネ
今日はヨハネによる福音書を読んでいるが、他の福音書によると洗礼者ヨハネはイエスと親戚だったと書かれているものもある。ヨハネは荒れ野で神の国が近づいたことを人々に伝え、悔い改めを迫って罪の赦しを得させるバプテスマを授けていた。そしてイエスもヨハネからバプテスマを受けたと書かれている。イエスはどうやら最初このヨハネのグループに入っていたらしく、後にイエスの弟子となるシモンとアンデレもこのグループにいたようなことも書かれている。
でも何故かヨハネによる福音書ではイエスがバプテスマを受けたことを書いてなくて、飽くまでも洗礼者ヨハネよりもイエスの方が優れているということを強調しているみたいだ。
ヨハネはイエスが世の罪を取り除く神の小羊であることを世間に知らしめることが自分の役目であると宣言している。彼は神の国が近づいていることを告げて、悔い改めてバプテスマを受けるようにと説いて、多くの人がそこに集まってきたようだ。ヨハネはやがてメシアが来ること、そしてイエスこそそのメシア、神の子であるということを伝えることを目指したようだ。
罪を取り除く
世の罪を取り除く神の小羊とはどういうことなんだろうか。当時神殿では小羊を自分の身代わりとして犠牲として捧げていた。つまりイエスはまさに世の身代わりとして捧げられる犠牲なのだということを言っているようだ。
でも、実際に小羊を供え物として献げてきたユダヤ人にとってはすんなり納得できることかもしれないけれど、理屈としてはわかるような気はするけれど、実際あまりよくわからないというか、あまりしっくりこない。
世の罪を取り除く神の小羊と言うけれど、では罪とはなんだろうかとよく考える。罪と言うと悪いことをしたこととか、悪い考えを持っているというようなイメージがあって、確かに自分には邪悪な思いがいっぱいあるというのは良くわかる。それを赦してもらうためにイエスは十字架で死んだと言われると、そうなのかなとは思う。本来私たちが受けるべき罰をイエスが代わりに受けてくれたと言われると、それならば有り難いという気持ちになる。でも神は罪があると罰せずにはおられないという目で私たちを見てるのか、或いは誰かの命を引き換えに献げないと決して赦さない方なんだろうかなんてことも思う。それってイエスが伝えている神と同じ神なんだろうかとも思う。
そもそも罪という言葉のギリシャ語はハマルティアというもので、的外れという意味なのだそうだ。ということは、罪とは悪いことと言うよりも、本来あるべき状態から外れている状態というようなこと、つまり神との関係を持って生きるべき人間が、神との関係から外れて生きているそんな状態、神との関係が断たれた状態、神なしで生きている状態、それが罪であるということかなと思う。そうすると罪を取り除くというのは、的外れの状態を修復するということになろうかと思う。
聖書では悔い改めよという言葉もよく出てくるけれど、悔い改めも、改心ではなく回心、つまり悪い心を良い心に改めることではなくて、向きを回す、神を向いていなかった心を神の方へ向きを変えるという意味なのだそうだ。
罪とはそんな神を向いていない状態を指しているようだ。そんな罪の状態を取り除くということは要するに神との関係を取り戻すということになるだろうと思う。つまり世の罪を取り除く神の小羊とは、人々を神との関係を持って生きるように連れ戻すための小羊ということなんだろうと思う。
それはどういうことなんだろうか。家出していた子供が家に戻ってくるようなものではないかと思う。イエスが後に放蕩息子の話をしたことがあった。本来居るべき家を離れていた息子が自分の家に帰ってくる、それこそが悔い改めであり救いだろう。
イエスは私たちを神の家に呼ぶ戻すためにやってきたのだと思う。そして家で待つ神は、放蕩息子の父親のように私たちの帰りを今か今かと待っているということを伝えるためにもやってきたのだと思う。
これは勝手な思い込みなのかもと思いつつ、ふと心に浮かんだイメージがある。それは私たちが神の家に帰るための道が崩れてしまっていて、イエスはその道を直しに来てくれた、道を直して私たちを迎えに来てくれた、そんなイメージだった。
イエスは道は直したからその道を通って帰ってこい、そのままで帰ってこい、ありのままのお前を待っている、そんな神の思いを伝えるためにイエスはやってきたのだろう。
見よ
「見よ」とヨハネは語った。イエスを見なさい、イエスこそキリストだ、救い主だ、世の罪を取り除く神の小羊だ、神の子だ、とヨハネは語っている。
このイエスを見なさい、イエスの生き様を見なさい、イエスの言葉を聞きなさい、ここに救いがある、神の方を向き神の声を聞く、それこそがあなたたちのいるべき場所、生きるべき場所なのだ、福音書は私たちにそう告げている。
新しい年もイエスを見、イエスに聞いて生きたいと思う。