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礼拝メッセージより
トンネル
何年も前になるけれど、散歩をして休山トンネルを通って帰ったことがある。1.5km位なので大した距離じゃない思うけれど、、僕にとってはとてつもなく苦痛だった。トンネルの中を歩いている間、同じ風景がずっと続くというのに耐えられないような気持ちでいた。
別に暗闇の中を歩いているわけでもないし、先に出口があることも分かっているのに、出口が見えるところまでもなかなか行き着かなくて大変だった。
苦しい人生を生きるというのはこんな感じなんじゃないかなと思う。きっと出口はあるだろうと思いつつというか、出口があることが分かっていたとしても、やっぱりそこに行き着くまではしんどいだろうなと思う。
休山トンネルだと光がある分まだましかもしれない。光のない真っ暗闇に迷い込んだような時、私たちはどうすればいいんだろうかなんて思うと本当のゾッとする。
言
ヨハネによる福音書では冒頭に「言」という言葉が出てくる。この言とはなんなのか。ここを読むとその言とはイエス・キリストのことを指しているようだ。
その言は世のはじめから天地がつくられる前からあった、神と共にあった、神であった、そして世界は言によって、つまりキリストによってできたと告げている。
すべてのものはキリストによってできたということは、この世界はキリストの世界、世界はキリストのもの、神のものということになる。私たち一人ひとりもキリストによって造られたということになる。
私たちがどこにいても、どんな時も全部神との関係の中にあるということだ。神から離れて、神との関係のない時を過ごす、神との関係のない所にいる、ということはないということだ。
光
そしてこの言の内に命があった、そしてこの命は人間を照らす光である、その光は暗闇の中で輝いていると告げる。
昔アメリカに行っていた人から真っ暗闇を経験したという話しを聞いたことがある。ある時鍾乳洞に行った時に、そこの鍾乳洞では中に入ってから電灯を消してくれるそうで、その時には全くの暗闇で全然光が見えなかったと言っていた。
そんな真っ暗闇を経験することはあまりないし、物理的な暗闇であれば火を灯せばすぐに真っ暗闇ではなくなる。
しかし人生の暗闇に遭遇するとどうしたらいいのだろうか。全く動けなくなってしまう。どうしていいのか分からない。人生の真っ暗闇に迷い込んだ時に、その暗闇を消し去る光はどこにあるのか。
聖書はイエス・キリストこそ、その光なのだと告げている。イエスは私たちの人生の燦然と輝く、すべての人を照らす光であるというのだ。
ではその光とは何なのだろうか。人生を照らす光とは何なのか。そもそも人生の暗闇とはなんなのだろうか。災害に遭ったり、怪我したり、病気したり、そんなあって欲しくない、なんとか避けたいのにいやおうなしにやってくるもの、それも暗闇と言えるかもしれない。
でも一番の暗闇はそれは自分が自分でいいと思えないこと、こんな自分では駄目なのだと思うこと、こんな自分は誰からも認められないと思う、そして誰からも必要とされていない、誰からも愛されていないと思うこと、ひとりぼっちになってしまう、それこそが一番の暗闇ではないかと思う。
勿論平穏無事に過ごしている時にはあまり感じないけれども、災難にあったり、人間関係が崩れたり、失敗したり挫折したりする時には、途端に暗闇に包まれてしまう、私たちは誰もがそんな弱い人間なのだと思う。そして心のどこかで、そんな暗闇がいつかやってくるかと怯えつつ生きているのではないかと思う。
しかしそんな暗闇の中にいる私たちに、また暗闇の恐怖に怯えつつ生きている私たちに光がさした、それがイエス・キリストだ、この福音書はそう告げている。
それは私たちを決してひとりぼっちにはしないということだ。たとえ誰からも認められなくなったとしても、自分のことを誰にも分かってもらえなくても、そんなときでも一緒にいるということなんだろうと思う。決して一人ぼっちにはさせない、いつも共にいる、それが私たちにとっての光なのではないかと思う。
ひとりぼっちになってしまい、自分のせいだ、自分が悪いのだ、どうしてこんなに駄目なのかと自分で自分を責めるようなこともある。
そんな真っ暗闇にも光がやってきた、と聖書は告げるのだ。
私たちを決して見捨てない、いつまでもどこにいても共にいる、そんなイエス・キリストがやってきたというのだ。
そんな言が、イエス・キリストが肉体となって私たち人間の世界に来た、という。神が人間として生きたというのだ。それがイエス・キリストである、とこの福音書は告げるのだ。
イエス・キリスト
私たちはそのイエス・キリストに、肉体を持ったイエス・キリストに会うことは出来ない。見ることはできない。しかし今私たちはイエスと言として接している。聖書の言葉を通して、イエスの言と接している。そしてこのイエスの言はそのままイエス自身でもあるように思う。
言葉に霊が宿ったり、言葉自体に力があるのかどうかよく分からないけれど、言葉の向こうには、その言葉を発した人の思いがあり、その思いを感じることができる。言葉を通して、その人の思いを感じるからこそ、その言葉によって力づけられたり励まされたり癒やされたりする。
聖書は神が私たちを愛していると言う。けれども直接神の手の中に抱きしめられるという形で、肌を通してその愛を直接感じることはできない。けれども、イエスを通して、イエスの言葉を通してそのことを知らされている。
つまり、イエスの言葉を聞くことで私たちは神の愛を感じることができる。イエスの言葉を聞くこと、それはほとんどイエスと会っているようなものだ。
聖書はただの書物である、といえばその通りであるが、そこでイエスと会うこともできる、そんな書物でもある。誰かが聖書は神からのラブレターだ、なんてくさいことを言っていたがしかしその通りだと思う。いくらいっぱいラブレターを貰っても、相手の思いを感じ、その思いを受け止めらなければ嬉しくもなんともない。
しかしラブレターから相手の愛を感じて受け止める時には、私たちの心は震え暖かくなる。どんなに相手が遠くにいたとしても、距離なんてのは関係なくなる。
聖書の言葉を通して私たちは神に出会い、イエスに出会い、そこから喜びや平安や希望、そして愛を受けるのだ。イエスはそんな言として私たちの心の中に入ってきてくれるのだと思う。
だからと言って私たちが立派な人間になったり、完全無欠な人間になったりなんてことはないだろう。相変わらず失敗したり挫折したり、怪我したり病気になったり、いろんな災難に見舞われることもあるだろう。人生真っ暗闇だと思うようなこともまだまだあるかもしれない。
けれども私たちに対して、そんなお前が大事なんだ、今のお前のことが大好きだ、そのままのお前を愛している、何があってもお前の味方だ、どんなことがあってもひとりにはしない、イエス・キリストはそう私たちにそう語りかけていてくれている。その言葉を通してイエス・キリストは私たちを力づけ支えてくれるのだ。
そんなイエスの誕生を喜ぶのがクリスマスだ。そのイエス・キリストを私たちの心の中に迎え入れる、だからこそクリスマスは喜びなのだ。
「クリスマスのメッセージ、
それは、私たちは決してひとりぼっちではないということ。」
テイラー・コールドウェル