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礼拝メッセージより
背景
ユダヤの国が北王国イスラエルと南王国ユダに分かれていた時代、そして北のイスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、そのアッシリアの脅威が南のユダにも迫ってきていた時代だった。
南王国のアハズ王は最初はアッシリアに服従したが、後にエジプトなどと組んでアッシリアに反旗を翻した。一旦はそれが功を奏して独立を保てたけれども、アッシリアが体勢を建て直して再び攻めて来たときには対抗できず、莫大な賠償金を支払うことでエルサレムはどうにか助かり、ヒゼキヤも王として残った。
ミカはモレシェトという田舎の小さな町にいたけれども、その町はアッシリアによってペリシテの領土とされたことで、エルサレムへ逃げて行ったのではないか、とも推測されるそうだ。ミカは滅ぼされた北イスラエルと同じようなことが南ユダにもあるという神の言葉を伝えた。それは富んでいる者たちが貧しい者たちから取り上げているという状況だった。そのようなことがあったせいなのだろう、ミカはエルサレムにいる上流階級に対しての痛烈な言葉を語っている。
しかしその合間に、約束に満ちた回復の預言も語られている。4-5章は今後敵の国に補囚されるだろうという預言と、補囚からの帰還についての預言が交互に語られている。
ベツレヘム
ミカはエフラタのベツレヘムについて語る。ベツレヘムとはパンの家という意味で、エルサレムから南に約9kmの地にある。かつてルツがナオミと共にモアブから帰還した地であり、ルツとボアズの子孫としてダビデが誕生した町でもある。
エフラタとは、実り多いという意味で、ベツレヘムの地域にで生活していたユダ族の中でも小さな氏族のことだそうだ。またエフライムとベニヤミン部族の間の境界地域をさす地名で、ベツレヘムの古い地名でもあった。パンに家とか実り多いという意味からも、この地方は肥沃な土地で穀物や果物に恵まれていたようだ。
このベツレヘムからイスラエルを治めるものが出る、と告げる。
ベツレヘムはかつての偉大な王として名を馳せていたダビデの生まれ故郷だったそうで、ミカもダビデのような王が再び登場して、アッシリアの脅威を跳ね返すと考えていたのかなと思う。
預言
そして新約聖書のマタイによる福音書では約束されたメシアがベツレヘムで誕生したと告げて、ミカの言葉を引用している。
マタイによる福音書2:1-5 新共同訳
【イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。】
小さき者
祭司長たちや律法学者たちもメシアがベツレヘムで生まれると言う事を知っていたということだ。このミカ書の言葉は広く知れ渡っていたらしい。
マタイはこのミカの言葉はイエスにおいて成就した、イエスにおいて現実のものとなったと語る。マタイによる福音書では、イエスの親となったヨセフとマリアはベツレヘム出身でもともとそこに住んでいたかのようだ。そして外国からやってきた占星術の学者たちにだまされたことで怒ったヘロデ王から逃げるためエジプトへ行き、その後ガリラヤ地方のナザレに住むことになったと書いてある。
一方ルカによる福音書では、ヨセフたちはもともとナザレに住んでいたが、人口調査がありダビデ家に属していたので、ダビデの町であるベツレヘムに行き、たまたまベツレヘムの家畜小屋か何かでイエスを産んだということになっていて、マタイによる福音書とは食い違っている。
マタイやルカが福音書をまとめる時にも確かな資料なんてものはもちろん残ってもいなかっただろうと思う。王の子どもとして生まれたなら、いつどこで生まれたなんていう資料も残っているかもしれないけれど、イエスは小さな町の名もない夫婦のもとに生まれてきたので、実際どこでいつ生まれたかなんてことは後の人は誰もしらないというのが正直なところだと思う。
ただメシアはベツレヘムで生まれるといわれていたので、イエスこそが旧約時代から約束されていたメシアであるというために、かつての偉大な王と言われるダビデが生まれた村であるベツレヘムで生まれたという話しになっているんだろうと思う。
面白いことにマタイによる福音書では、ミカ書の引用をするときに、決していちばん小さな者ではない、と変わっている。キリストが生まれたからには小さいものではなくなった、と言いたいのだろうか
イエスは名もなき小さき者たちに寄り添って生きるようになった。社会からのけものにされ、差別され、見放され、そして罪人とされている人たちのところへ出かけていった。当時は触れてはいけないといわれていたらい病の人たちや、悪霊につかれていると言われていた恐らく精神的な病を持った人たち、そんな人達と共に生きた。そして無力なまま十字架で処刑された。
イエス・キリストは、今もそんな小さな小さな者たちのことをしっかりと見ているということだろう。そしていつまでもイエス・キリストは小さな者たちの中におられるということなのではないかと思う。
聖書には弱く小さいものを選ぶということが多く出てくる。神の目的を成し遂げるために最も小さき者、恐らく最も取るに足りないものを神は選ばれた。
ギデオンという士師がいたが、彼は最も貧弱な氏族の者、家族の中で一番若い者であった(士師記6:15)。サウルは自分の氏族がイスラエルの中で最も小さな部族だと述べた(サムエル記上9:21)。主は末っ子のダビデを選ばれた(サムエル記上16:1-13)。
そして、世のメシアであり救い主である方が飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子であるという宣言。小さき者を選ぶこと、それは聖書の主題でもあるようだ。
弱く小さな乳飲み子。それも家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされている子。そしてまったく無力な十字架の死、しかしそこに神がおられる。そこに神の意志がある。その弱さの中に神の意志がある。そこにこそ神がおられる。福音書はそのことを伝えているように思う。
私たちは力を望む。誰にも負けない腕力、何事にも動揺しない精神力、病気に打ち勝つ体力、何があっても大丈夫な経済力を求める。しかしなぜか神は弱い者と共におられる。何も誇るものを持たない小さき者と共におられる。
神が共にいる、それこそが私たちの力だ。私たち自身には何もなくても、私たちを愛してくれている神が共にいる、そのことこそが私たちの力だ。
愛される
「誰かを心から愛すると力が出る。 誰かに心から愛されると勇気が出る。 」(老子/中国の哲学者)
僕は間違ったこと、失敗したことをいつまでも後悔してばかりだ。そしてどうして自分はこんなにダメなのかと自分で自分を自分で責めて落ち込むことが多い。そして神に愛されていることなんてことも忘れてしまう。神はあなたを愛してます、なんて説教では話すけれど、自分では愛されているなんてことはすっかり忘れている。
神さまはどうして教会の人数を増やしてくれないのか、献金も増やしてくれないのか、なんてことばかり考えていて、愛されていることなんてどこかに飛んでいたような気がしている。
でもイエス・キリストは社会の片隅でひっそりと生まれた。名も無き小さな子供として生まれた。そして名も無き小さな者たちを大事にし、そんな人たちに寄り添って生きてきた、そんな人たちに神の愛を伝えたと聖書は告げている。
イエス・キリストは今も名も無き自分に目をむけ、名も無きこの小さな自分を愛してくれている、いつも一緒にいてくれている。
「これがクリスマスのメッセージです。私たちは決して一人ではありません。」
(テイラー・キャルドウェル/小説家)