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礼拝メッセージより
ミカ
ミカ書1章1節によると、ミカ書のミカはユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代の預言者である。
列王記によると、ヨタムは主の目に正しいことを行った。しかしアハズは主の目にかなう正しいことを行わなかった。
アハズの時代にユダは北のイスラエルとアラムによって攻められ、エルサレムを包囲されたことがあった。その時アハズはアッシリアという強い国に助けを求めた。アハズ王はアッシリアのティグラト・ピレセルという王に、わたしはあなたの僕です、アラムとイスラエルから救いだして下さい、と頼んだ。そして神殿と王宮の宝物庫にある銀と金をアッシリアの王に贈った。そこでアッシリアの王はアラムをやっつけてくれた。そしてアッシリア風の祭壇を神殿の中に作らせた。
次の王ヒゼキヤは主の目にかなう正しいことを行った。聖なる高台を取り除き偶像を壊した。そしてアッシリアの王に刃向かって服従しなかった。しかしアッシリアは北イスラエルに攻めてきてサマリアも占領し、イスラエル人をアッシリアに連れて行った。そしてアッシリアの王センナケリブはユダにも攻めてきて、ユダの砦の町をことごとく占領してしまった。
ヒゼキヤはアッシリアの王に赦しを乞い、神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀や、金で覆った神殿の扉と柱を切り取って贈った。しかしアッシリアの王はヒゼキヤに降伏を迫ってきた。当時はエジプトを頼りとしていたようだが、アッシリアの力の方が強かったようで、エジプトなんかに頼っても無駄だ、というようなことまで言われている。
ヒゼキヤはイザヤにどうしたらいいかと相談したなんてことも書かれている。イザヤは神を信じ神に頼れということを答える。そしてその時は神の力によって助けられたという。
パレスチナは強い大きな国の間にある要衝だそうだ。方やエジプトがあり、反対側にはこの時はアッシリアとか、後にはバビロニアとかいう国が現れる。強い大きな国が相手を責める時に通過するのがパレスチナなのだそうだ。だから相手側の強い国を攻めるにしても、脅威を押さえるにしても、パレスチナを押さえておくことが大切だったらしい。
そんな両大国の脅威を感じたり、あるいは近くのもっと小さい国との争いがある中で、戦いに負けない力をつけることが国を守ることでもあったのだろう。あるいはどこと仲良くするかということが大事だった。強い方の国と仲良くすることで自分達を守るという面もあったようだ。
そんな時にミカはこんなことを預言している。終わりの日には、主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない、と。
非常識
同じようなことが今でもあるような気がする。あの国が脅威だからこっちにつこう、攻められないように力をつけよう、攻められてもやられてしまわないように強くなろうと考えるのは常識なのかもしれない。
戦争反対なんて言うと、何寝ぼけたこと言ってるんだっていうような雰囲気がある。マスコミでも戦争反対なんていう人はあまり登場しなくなってきた。周りの国がどんなに危ないかということを言う人ばかりがテレビに出ているような気がするし、他の国がいかに危険な国か、おかしな国かというような話しをしたがっているような気がする。
この前の戦争の時には反対のことがあったと聞く。鍋や釜などそこら中にある金属を供与して武器を作っていたらしい。ピアノ線まで集めたなんて話しも聞いたことがある。そんなものまで集めて、庶民の生活を苦しめるようなことまでして武器を作って、一体何を守ろうとしていたんだろうか、なんて思う。
今もいろんな国で戦争が続いている。テロも続いている。信念を持ってやっているのだろうか。何を守ろうとしてやっているのだろうか。国を守るためとか正義のためとか、そんな崇高な信念があるのだろうか。でも実際には一般の市民が大勢死んでいる。指導者たちにどんな崇高な信念があるのかないのかよく分からないけれど、結局は末端の者たちが苦しみ死んでいく。生き残ってもいろんな痛みを背負って生きているような気がする。
でも仕方ないのだろうか。人間なんて所詮そんな生き物、殺し合いながら生きていく生き物なのだろうか。
しかしミカは神の言葉を伝える。終わりの日のことを伝える。その時には武器を打ち直して農具にする、国と国が戦うことを学ばなくなるというのだ。終わりの日、それは一体いつくるのだろうか。ミカがこの言葉を伝えのはもう2,700年位も前のことらしい。こんなことに本当になるんだろうか。
しかしこれが神の言葉ならば、私たちはこれを目指して生きていくべきなのだろう。でもなかなかそんなことにはなりそうもないような気もする。今の世界情勢を見てても、国と国が争わない世界なんて来そうにないような気がする。武器を無くすなんて非常識な気がする。
しかしそんな今の世間の風潮に従うのか、あるいはこの神の言葉に従うのか、それを私たちは問われているのかもしれない。教会に来ている私たちこそ、この神の言葉を信じるのかどうかが問われているような気がする。
戦うことを学ばない日が来ると言われている、その言葉を信じて、そこを目指して生きていくように、平和な世界を作っていくように、それこそが神の意志だと言われているのではないか。
弱く
力を持って力で対抗する。それが今の常識になっている。弱肉強食の世界になってきている。国と国のことだけではなく、身近な人間関係でも力を持つ持って相手を負かすこと、相手に負けないことばかりを目指しているような面がある気がする。
そこに喜びはあるんだろうか。相手を大事にする、愛するところに喜びがある。そんな相手とのつながりを持つことに喜びがあるんじゃないだろうか。
ネットを見ていると、今日の聖書の箇所についてある人が、こんなことを書いていた。
「ミカは、イスラエルが戦いに巻き込まれ、そして荒地となることを予告します。それはイスラエルが弱いものの痛みに心を配ることをせず、神の教えに背いたからだと語ります。しかし、ミカの預言はそこでは終わりません。その後に神がふたたび顧みられ、戦うことを学ばず、平和を学ぶようになるというのです。戦いに敗れて、イスラエルの中の富める人も土地が奪われる。すべてのイスラエル人が弱いものとなり、貧しい者となり、痛みを知る者となるからです。自分も敗れ、自分も痛みを知って、初めて痛むものの気持ちを知るからです。」
自殺と向き合うある精神科医の人が「人を愛するために必要ならば、私たちはもっと弱くなるべきなのだ。」と書いてあった。普段は自分の心の痛みへの感覚が鈍くなっている、だからもっと弱くなるべきだ、ということのようだった。
人は強くなることで、自分の心の痛みも相手の心の痛みも感じられなくなってしまう。愛するためにはもっともっと弱くなるべき、弱くあるべきらしい。
弱くなって相手の痛みを知ること、それがイエスの生き方でもあったように思う。弱いままに生まれ、弱いままに十字架につけられてしまった。しかし弱いからこそ私たちの痛みをよく分かってくれているのだろうと思う。
相手の痛みを知るためにも、私たちはもっと弱くあるべきなのかもしれない。それはまるで世の中の常識に逆行する非常識な生き方のような気がする。けれども何よりも愛することが求められているわけで、そのためにも私たちは弱くなり、隣人の痛みを知る人間になることが求められているのであって、それこそがイエスに従う生き方、イエスに招かれている生き方なのだと思う。そしてそこにこそ本当の喜びがあるのだと思う。