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礼拝メッセージより
エッサイ
イザヤに示された幻がここに告げられているのだろう。あるいはイザヤの待ち望む夢なのかもしれない。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」(11:1)という言葉で真っ先に思い出すのは、クリスマスの時に歌う新生讃美歌153番の「エッサイの根より 生い出でたる」という歌詞だ。あるいは149番の「エッサイよりいでし主 悪魔のてだてを」というのもある。
このエッサイというのはダビデの父親の名前だ。ダビデはかつてイスラエルを強い大きな国にまとめあげた偉大な王として名を馳せていた、誰もがよく知っている王だ。エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、ということは、ダビデのような偉大な王が再び登場するという期待を持っているということなんだろう。
しかし同時に、株から芽が出る、根から若枝が育つ、ということは、大きく育った木が切り倒されてしまい、株だけが残されるということをも暗示しているようだ。
イザヤの時代、北方にあるアッシリアという国の脅威にさらされ、周りの国々と共に混乱していた。
アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世は、ペリシテとシリアと北イスラエルに多額の貢ぎ物を要求した。しかしユダ、エドム、モアブ、アンモンは占領せずにエジプトとの緩衝地帯ということで従属国として残すことにして貢ぎ物を要求しなかった。
貢ぎ物を要求されたダマスコ、サマリア、ペリシテとしては、この地域が一体となって反アッシリア同盟を結ぶべきと考えて、北イスラエルの王ペカは南ユダにも同盟に加入することを求めた。ユダ王国はそれを拒否すると、アラムとイスラエルはユダを攻めてきた。ユダの王であったヨタムはその頃に死に、息子のアハズが王になったが、アハズは恐れのあまりに、異教の習慣に倣って自分の子を焼き尽くす献げ物としたなんてこともあったようだ。そしてアッシリアに援助を求めてはいけないというイザヤの助言に従わずに、アッシリアに助けを求めた。そこでアッシリアは北イスラエルとシリアを攻めて、やがて北イスラエルは滅亡することになる。
アハズ王はダマスコにいるアッシリアのティグラト・ピレセル3世を表敬訪問して、そこにあったアッシリア風の祭壇の見取り図と作り方を入手して、エルサレムに同様のものを造らせたなんてこともあったようだ。
希望
アハズと対立していたイザヤは、次の王に期待するようになったらしい。
そこで、切り株から芽が出る、根から若枝が育つ、と言うのだ。イザヤはエッサイの株から、つまりダビデ王家の家系からまたすぐれた王が登場するという思いでもあったようで、イザヤはヒゼキヤ王こそがこの若枝ではないかと期待を持っていたようだ。
イザヤの待ち望む王は、2節以下にあるように主を畏れ、正義と真実によって公平に裁きを行い、貧しく弱い者たちのことを守る、そんな王だ。そして狼と小羊、豹と子山羊、子牛と若獅子が仲良くして、熊もライオンも草を食べ、蛇や蝮も害を与えることはない、そんな世界がやってくる、なんてことを言っている。
実際には肉食獣が肉を食べなくなると生態系が狂ってしまうわけで、このことば通りの世界になるということではなく、今までとは全く違う世界、これまでの争いに満ちたのとは全く違う社会になる、という希望を語っているのだろう。
「その日がくれば」(11:10)と告げる、新しい王の治める日がきっとやってくるとイザヤは語っている。
イザヤが告げる新しい国とは、強くなって外国の脅威にさらされない、あるいは外国を倒し大きくなる、そんな強い大きな国になるというようなものではない。ここで語られているのは、王が神から与えられた正義と公平の霊によって正しい裁きをし、貧しい者や弱い者を守る、争いや戦いのない、そんな国だと言っている。
では当時の国の状態がどうであったのか。イザヤ書1章にはイザヤ見た幻として当時のユダの国の状況が書かれている。
1:2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
1:3 牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。
1:4 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。
1:5 何故、お前たちは背きを重ね/なおも打たれようとするのか/頭は病み、心臓は衰えているのに。
1:6 頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷は/ぬぐわれず、包まれず/油で和らげてもらえない。
1:7 お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ/田畑の実りは、お前たちの目の前で/異国の民が食い尽くし/異国の民に覆されて、荒廃している。
1:8 そして、娘シオンが残った/包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように/きゅうり畑の見張り小屋のように。
1:9 もし、万軍の主がわたしたちのために/わずかでも生存者を残されなかったなら/わたしたちはソドムのようになり/ゴモラに似たものとなっていたであろう。
1:10 ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。
1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を
1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
1:18 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
1:19 お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。
1:20 かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。
当時の社会は外国からの脅威にさらされて混乱している時代でもあったけれど、イザヤ書の1章で言われているように、本当の問題は外側にあるのではなく内側にあるということなんだろう。
つまり外国からの脅威があることが本当の問題ではなく、国の中に不正や搾取があること、それが問題なんだということだろう。悪を行い善を行わないこと、具体的には孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護しないというようなこと、それが問題だったのだ。だから、その問題を放っておいてどれほど献げ物をしても、祭りを行っても、祈っても、そんなものを神は受け付けない、聞かないと言われているのだ。
若枝
イザヤはそんな根本の問題を解決する新しい王を期待した、そんな王がやってくるという神から示された希望を告げたということなんだろうと思う。
イザヤは当初はヒゼキヤ王がエッサイの根から出た若枝であると期待したようだ。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(9:5)とあるが、このみどりごはヒゼキヤ王のことのようだ。
しかし後にヒゼキヤ王はイザヤの忠告に反してバビロニアに援助を求めるようになる。
39:1 そのころ、バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダンがヒゼキヤに手紙と贈り物を送って来た。病気であった彼が健康を回復したことを聞いたからである。
39:2 ヒゼキヤは使者たちを歓迎し、銀、金、香料、上等の油など宝物庫と、武器庫、倉庫にある一切の物を彼らに見せた。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは、宮中はもとより国中にひとつもなかった。
39:3 預言者イザヤはヒゼキヤ王のところに来て、「あの人々は何を言ったのですか。どこから訪ねて来たのですか」と問うた。ヒゼキヤは、「彼らは遠い国、バビロンから来ました」と答えた。
39:4 更に、「彼らは王宮で何を見たのですか」と問うと、ヒゼキヤは、「王宮にあるものは何もかも見ました。倉庫の中のものも見せなかったものは何一つありません」と答えた。
39:5 そこでイザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主の言葉を聞きなさい。
39:6 王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる。
39:7 あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある。」
39:8 ヒゼキヤはイザヤに、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた。
キリスト教会ではイエスこそがこの若枝だと考えるようになった。イザヤがイエスのことを意識して告げたわけではないと思うけれど、イザヤの語る若枝の有り様はイエスにぴったり沿っていると思う。
イエスは社会からつまはじきされている者、貧しく小さく苦しめられている者、差別されさげすまれている者、そしてこんな自分は駄目な人間なんだと自分で自分を否定している者、自分には価値がないと思っている、そんな人達のところへ会いに行かれた。そしてあなたが大事だ、あなたが大切だ、あなたを愛していると告げた。まさにイザヤの告げる若枝の姿そのものだと思う。
国を強くする王ではない、しかし本当に大事なもの、一番大事なものを私たちに伝える、イエスはそんなエッサイの若枝なのだ、とクリスマスには歌っている。
愛はあるんか
イザヤの時代の問題は国の外にではなく内側にあった。本当の問題は外国からの脅威があることではなく、弱い立場の人を大事にする気持ちがないこと、言わば愛がないこと、思いやりがないこと、それが問題だった。
私たちの教会も一番の問題は愛があるかどうかなのではないかと思った。新しい人が来ないとか続かないとかいうことばかり気にしている。そんな風に外の人が来るか来ないかということ外のことばかりを気にして、誰も来ないと思って元気をなくしている。でも、教会に愛があるのかどうか、思いやりがあるのかどうか、そっちの方が余程問題なんだ、本当に大事なのは内側だぞと言われているような気がしている。
ついつい来ない人や少なくなった人の数ばかり数えてしまうけれど、一緒に礼拝している人、また礼拝に来てなくても一緒に聖書の言葉を聞く人のこと、あるいは教会のことを気にかけてくれている人のこと、心配してくれている人のこと、そして同じ時を一緒に生きている様々な人のこと、そんな色々な人達のことを大事にしているのか、愛しているのか、そう言われているような気がしている。
そして神がどれほど私たちを愛しているのか、そのことを私たちに知らせてくれた、また私たちを今も愛してくれている、イエスの声をしっかりと聞いていきたい、この愛をしっかりと受けていきたいと思う。