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礼拝メッセージより
ハレルヤ
2節に「エルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。」とあり、また13節では、「主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし、あなたの中に住む子らを祝してくださる。」とあるように、この詩編はバビロン捕囚から帰還した人たちがエルサレムの城壁や神殿を再建したころのものらしい。
この詩の最初と最後に「ハレルヤ」(神を賛美せよ、神をほめたたえよ)とある。バビロン捕囚という苦しい経験をしてきたけれど、神は打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる方だ、貧しい人々を励ましてくださる方だという。神は無力な弱い自分達を助けてくれた。自分達の間違った行いによって、つまり神に命令を聞かず、その結果自業自得ともいえるような補囚という痛い目にあってしまった、自分達は神に見捨てられてしまったに違いない、そんな打ち砕かれた心の自分達、ぼろぼろになっている自分達なのに、神は癒してくれ、その傷ついた心を包んでくださったと言っている。
だからこそハレルヤと神をほめたたえよ、感謝の献げ物を献げて主に歌えと言っている。
宇宙
また詩の中で神とはどういう方かということを語っている。
神とは星に数を定め、それぞれに呼び名を与え、天を雲で覆い、大地のために雨を備え、山々に草を芽生えさせる方、また獣や鳥のために食べ物を与える方だと言う。
先日月食があったけれど、昔は月食とか日食とかは神が天罰を下す警告だと思ったようで、古代バビロニアの時代から日食や月食の記録が残されているそうだ。それにしても月食があることを事前によく分かるもんだと感心する。何時何分から始まって、どれ位欠けるなんてことを、よく予想できるなあといつも思う。
それと、太陽と地球と月が一色線に並ぶなんて、こんな広い宇宙空間でよくそんなことが起こるなあと思うこともあった。
兎に角神はそんな宇宙を支配している方だと言っているようだ。聖書時代の宇宙観は今と違って、空がお椀のようになっていて、そこに星が移動するルートがあって、太陽も月も他の星もそこを通っていたと考えていたようだ。空の上にも水があって、時々それが落ちてきて雨になる、そしてその上には天があってそこは神の領域である、そんな風に考えていたようだ。
今では宇宙はもっともっと広いことも分かっているし、空の星もお椀の軌道を回っているわけではなくて、星座の星々も広い宇宙に散らばっていることも分かっている。そうすると天はいったいどこにあるのか、神はいったいどこにいるのかと思う。神が天と地を創造したなんて書いてあるけれど、それはどういうことなんだろうかと思う。神はこのやたら広い宇宙のその外側にいるんだろう、そもそも神なんかいないじゃないかという気にもなる。
でも神は結局は見えない存在なんだと思う。望遠鏡でずっと遠くを覗いても見えない存在だと思う。神は望遠鏡では見えないけれど、宇宙の外側にいるのではなく、私たちをいつも一緒にいてくれて、いつも見えない形で支えているのだと思う。実は高い高い天にいるというよりも、むしろ私たちの心の中にいるのだと思う。
望まれる
その神が望まれるのは、馬の勇ましさや人の足の速さではないと言う。そうではなく、主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人だと言う。
当時馬は戦いのために用いられたそうだし、足の速さは戦いに有利になるのだろう。しかし強力な軍備を持ち強い国になることを神は望んではいない、また人が間違いのない失敗しない立派な人間になること、そんなことを神は望んではいないと言っている。そうではなく、ただ神に助けを求める者、もうどうしようもなくただただ神に憐れみを求める者、そんな者を神は望んでいるというのだ。
みじめな者
札幌北部教会というところのHPにこんな文章があったので勝手に紹介します。
「日本の社会一般には、キリスト教に限らず、「宗教というものは、自らを高め、人格を磨き、人間としての力を向上させるためのもの」というイメージがあるようです。一心に信じていっしょうけんめいに修行や努力を積むことで、空中に浮かぶとか病気が治るとかいった「奇跡」はともかく、何かしら人並み以上に価値ある人間となっていくような期待があります。逆に、何年も信仰生活を送っていても、とりたてて人よりもすぐれた評価がなされないと、「私は信仰が浅くて」と落ち込んだり、あるいはそういう人のことを「あれでも信仰があるの?」と怪しんだりします。
ともすると、キリスト教に基づく教育施設や、あるいは教会、CSなどでさえ、キリスト教信仰を深めることと、すぐれた人間として高い評価を得ることが、ストレートに結びついてしまっていることがあります。「イエスさまを信じる人は、心が広く、ゆたかな人」「神さまを信じる子どもは、やさしく、元気で、個性と能力をいきいき発揮します」「信仰をもっている人は、どこか違ってすばらしい」等々・・・。
しかし、信仰は、すぐれた人となるためのものなのでしょうか? あるいは、すぐれた人こそが信仰深い人なのでしょうか?神さまは、そういう、すぐれた人を、信仰深い者として喜んでくださるのでしょうか?
詩編147編は、さまざまに神をほめたたえて歌っています。主をほめたたえるべき理由として、ひとつには神が自然を創造し支配していることを挙げています(4節、8〜9節)。そしてもうひとつには、人間をかえりみてくださる神の憐れみと慈しみ、愛を指摘して、「感謝の献げ物をささげて主に歌え」「わたしたちの神にほめ歌を歌え」と呼びかけているのです。
ここで、神がかえりみてくださる人として具体的に挙げられているのは、「イスラエルの追いやられた人々(2節)」「打ち砕かれた心の人々(3節)」「貧しい人々(6節)」です。紀元前6世紀、イスラエルの人々は強国バビロニアにさんざんに打ち破られ、都エルサレムは陥落、長い間の信仰の中心であった神殿も失われました。おもだった人々は遠くバビロンへ連れ去られ、かろうじて生き残った人々も、明日をも知れない貧しさの中に投げ出されました。力も自信も財産も希望も無くし、ぼろぼろに打ち砕かれてしまった人々は、「ダサく」「きもい」「うざい」存在になりはてたのでした。
しかし、主が喜び、望むのは、人がすぐれた力を発揮することではありませんでした。そうではなく、このような無力な人々、自分ではもはやどうすることもできずにただ神に頼むしかない人々、主の慈しみ以外に希望を持つことのできない人々、主の憐れみを待つほかない人々を、神は望み、喜ぶのだ、とこの詩は歌うのです。このような神こそ、わたしたち敗残の貧しい者、力を失って何も誇るものをもたないみじめなわたしたちの神なのだ、といっているのです。」
本当にその通りだと思う。私たちの神は、力を失って何も誇るものをもたないみじめな私たちを愛し、いつも共にいる神なのだ。
イエスの姿を思い起こす。イエスは十字架につけられ処刑されてしまった。力を発揮して十字架から降りてくることもなく、みじめな姿で処刑されてしまった。だからこそイエスは私たちみじめな者のことが分かるのだろう。イエスはみじめな姿で、みじめな私たちと共にいてくれているのだろう。
神の望みは私たちが強くなることでも立派になることでもない。ただ神に望みを置き、神の憐れみを求め、神の言葉を聞くことだ。それが大事なことであり、それこそが神を愛することであるように思う。そしてイエスが語ったもうひとつ大事なことは自分を愛するように隣人を愛することだ。
みじめな私たちをそのままに大切に思ってくれている神の言葉、イエスの言葉をもっともっと真剣に聞いて生きたいと思う。