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礼拝メッセージより
都上りの歌
この詩編についてこんな説明があった。
「詩篇131篇は詩篇120篇から134篇まで続く、15の「都上りの歌」の一つです。イエスの時代のエルサレム神殿には、女性の庭からイスラエルの庭に上がる際に15段の階段がありましたが、それはこの15の歌に対応し、レビ人たちはその階段に並んでこれらの15の詩篇を歌ったという言い伝えがあります。どちらにしても、これらの詩篇の中心主題は、エルサレム神殿への巡礼です。」
驕り高ぶり
それにしても不思議な言い回しだなあと思う。
驕っていません、高くを見ていません、大き過ぎること及ばぬことを追い求めません、ってなんだか変な言い方だなあ。というか自分で言うか。自分から言うのは高慢じゃないのかと思ってしまった。
威張りたい
威張りたい気持ちがいっぱいある。みんなが知らないことを知っていると自慢したいと思う。礼拝のメッセージでも、みんなが知らないことを自慢気にしゃべりたいといつも思っている。そしてみんなが、へぇ〜、って顔をしてくれたら嬉しくなる。この詩人はそんな気持ちは持っていませんということなんだろうか。
どうして
高くを見るとか大きすぎること驚くべきことを追い求めるとはどういうことなだろうか。
神の事をわかりたい。聖書のことを分かりたい。という気持ちがある。
人生がどうなっているのかわかりたい。人間とはなんなのか分かりたい。
さまざまな災害がどうして起こるのかわかりたい。世の中の不条理がどうして起こるのかわかりたい。と思う。
神はこの世の中にどういうふうに関わっているのか、神がこの世の中に正義を行っていないように見えるのはどうしてなのか、そんなことも知りたいという気持ちもある。
この詩人はそんなことを求めることもしない、ということなんだろうか。
母なる神
2節では魂を沈黙させる、母の胸にいる幼子のようにすると語る。
新共同訳では幼子となっていて、どれ位の子供なのかよくわからないけれど、他の訳では乳離れした子となっている聖書が多い。例えば口語訳では2節は「かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。」となっている。
乳離れした子ということであれば、いつも母親と一緒というわけではなくて、母親から離れて動き回ることができるようになっているということだろう。でもそんな子供も母親の胸に帰ることで安らかになるということだ。
神とはいつも私たちを待ってくれている母親のようなものであり、神を信じるということは、その母親の胸に帰ること、その両手で抱きかかえられることなんだろうと思う。
イエス
イエスが子供を祝福した時の話しがマルコによる福音書10章13節以下にある。
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
子供のように神の国を受け入れるというのは、きれいな心になってとかいうよりも、ただただ母親の腕の中に帰っていくということなんだろうと思う。
みんなと遊んで楽しい時も、誰かに誉められてうれしいときも、何かに失敗して落ち込んでいるときも、転んで傷を負ったりする時も、のけ者にされて悲しくなった時も、何があっても母親の腕の中に帰っていく、それが私たちの信仰なんだろうと思う。
安らか
わたしの心は驕っていません、わたしの目は高くをみていません、と言うのは、驕り高ぶって何かをやらかしてしまった、自分の間違いや失敗に直面して、そのために痛い眼にあって、そのために打ちのめされているということかなと思う。それはバビロン捕囚という経験を通しての心境でもあるのかなと思う。
自分の力でどうにかなると思っていた。自分の知恵と力で局面を打開できると思っていた。でもそうではなかった。そのためにバビロン捕囚という痛い眼にあってしまった。
驕るとか高くを見るということは、自分の力だけでどうにかなる、自分の力があれば自分の思うようにできるという考えを持つということだったのではないかと思う。
しかし今はそんな考えはもう持っていないと言ってるようだ。自分の力だけで生きようとはしない、母親の胸に抱かれている幼子のように、神の下に帰ることにした、そこに平安があった、ここにこそ平安があった、そう言っているようだ。
子供は安心して帰る場所があるからこそ、外でおもいっきり遊ぶことができるのだと思う。夕方になって帰る場所がないとしたら、あるいは帰る家が安心できるところでないとしたら、子供は昼間もおもいっきり遊ぶことなんてできないと思う。
私たちの人生にも色んなことがある。躓いたり、転んだり、ぶつかったり、喧嘩したりすることもある。理解できない大変なことに直面することもある。
でも私たちには帰る場所がある。私たちには幼子を抱き締める母親のように、放蕩息子を待ち続ける父親のように、私たちを無条件に迎えてくれる神がいる。
そしてイエスがいる。イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言ってくれている。
面白いのはイエスは重荷を負ってやろうとは言っていないことだ。休ませてあげようというだけだ。しかしイエスのもとでしっかり休むことで私たちは次の一歩を歩む力を与えられるのだと思う。
神の手に抱かれて安らかに休み、また次の一歩を踏み出していきたいと思う。