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礼拝メッセージより
アルファベット
今日はメッセージと言うよりも聖書研究みたいだなと思いつつ、、、。
詩編119編は計算し尽くされた詩のようである。新共同訳聖書では119編の初めのところ、119の下に小さな字で(アルファベットの詩)と書いてある。
詩編には119編以外にも、9編、10編、25編、34編、37編、111編、112編、145編にも同じようにアルファベットの詩と書かれている。
119編以外のアルファベットの詩は、節の最初の文字がアルファベット順に並んでいるそうだ。
119編は他のアルファベットの詩とはちょっと違っている。
119編を見ると、1節の前に(アレフ)と書いてあり、9節の前には(ベト)、17節の前には(ギメル)というように区切りごとに括弧付きのカタカナが書いてある。
このアレフ、ベト、ギメルというのがヘブライ語のアルファベットで、ヘブライ語のアルファベットは22文字あって、119編は22個の詩の集まりになっている。そして一個ずつの詩が全部8節になっていて、8節の詩が22個あるので、119編は8×22=176節になっている。
そしてそれぞれの詩が該当するアルファベットで始まる詩になっている。ということは聞いていたんだけど、詩の始まりの文字だけがアルファベットになっていると思っていたら、昨日ヘブライ語の聖書を見たら、実はそれぞれに詩の節の始まりが全部そのアルファベットになっていた。知らんかった。
という風に、とても計算し尽くされた詩になっている。というかよくそんな詩が作れるもんだと感心する。言わば8行ある詩の初めの文字を全部「あ」にするようなもので、なんだそりゃって感じがする。遊び心満載なのかな。
今日の箇所はアルファベットの17番目のペーが8節全部の頭にくる詩になっているという訳だ。そしてひとつひとつの節で話しが完結しているみたいで、つながりもないようで、節の順番を入れ替えても問題ないみたいだ。
御言葉
詩編では同じことがらを違った言い方で表現することがある。それが詩的な表現方法なのかな。
ここでも「あなたの定め」(129節)、「あなたの戒め」(131節)、「あなたの命令(134節)、「あなたの掟」(135節)、「あなたの律法」(136節)という言葉がある。定めとか戒め、命令、掟、律法、なんて言うと、守らないといけない、違反するとやばいことになりそうな面倒なことのような印象がある。けれど、結局はそれは要するに130節にある「御言葉」のことを言ってるのだと思う。
119編のなかにも御言葉と訳されている言葉がたくさん出てくる。
「どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」(9節)
「わたしはあなたの掟を楽しみとし/御言葉を決して忘れません。」(16節)
「あなたの僕のためにお計らいください/わたしは命を得て、御言葉を守ります。」(17節)
「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。」(25節)
「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。」(28節)
「わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしは御言葉に依り頼んでいます。」(42節)
「あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。あなたはそれを待ち望ませておられます。」(49節)
「主はわたしに与えられた分です。御言葉を守ることを約束します。」(57節)
「主よ、あなたの御言葉のとおり/あなたの僕に恵み深くお計らいください。」(65節)
「あなたを畏れる人はわたしを見て喜びます。わたしが御言葉を待ち望んでいるからです。」(74節)
「わたしの魂は/あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。」(81節)
「主よ、とこしえに/御言葉は天に確立しています。」(89節)
「どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください。」(101節)
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(105節)
「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください。」(107節)
「あなたはわたしの隠れが、わたしの盾/御言葉をわたしは待ち望みます。」(114節)
「わたしの熱情はわたしを滅ぼすほどです/敵があなたの御言葉を忘れ去ったからです。」(139節)
「夜明けに先立ち、助けを求めて叫び/御言葉を待ち望みます。」(147節)
「御言葉の頭はまことです。あなたはとこしえに正しく裁かれます。」(160節)
「地位ある人々が理由もなく迫害しますが/わたしの心が恐れるのはあなたの御言葉だけです。」(161節)
「主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。」(169節)
そして今日の箇所では、「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。」(130節)と書かれている。
御言葉だけじゃなく、あなたの戒めとかあなたの定めとかあなたの掟とかあなたの命令とかあなたの律法という言葉が盛りだくさんだ。こう見ていると、詩編119編は御言葉を求める詩になっているようだ。
御言葉を求める、神の言葉を求めるということは、何よりも神とのつながりを求めているということだと思う。御言葉を与えられるということは、神が自分に対して関心を持ってくれているということの証拠でもある。またその御言葉は、自分がどう生きていけばいいのか、また何をしてはいけないかということを教えてくれるものでもある。
旧約時代の人たちはその御言葉を戒めとか掟とか律法というような捉え方をしていたように感じる。そしてその戒めや律法に背かないこと、落ち度なく守ることに一所懸命だったように感じる。日常生活の中でもやっていいことと、やってはいけないことが規則として事細かに決められていたようだ。そしてそんな規則に縛られ、規則にばかり目を奪われて、神自身のことや掟や律法を与えた神の思いはすっかり忘れられてしまっていたんじゃないかと思う。
律法
律法に関してイエス・キリストが語った言葉が新約聖書の福音書に書かれている。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイによる福音書7:12)
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコによる福音書12:28-31)
律法が求めていることは神を愛することと隣人を愛することだと言っている。
神を愛するってどういうことなんだろうか。よくわからないけれど、イエスは私たちが神から愛されているということを繰り返し語ってくれている。その神の言葉を真剣に聞くことが神を愛することかなとも思う。
御言葉を
イエスは律法の真髄を伝えてくれただけではなく、それよりも神の思いを伝えてくれたのだと思う。律法を守れない者、罪人とされている者、自分には何の価値もないと思っている者、そんな者たちを神は大事に思っている、イエスはそんな神の熱い思いを私たちに伝えてくれた。
私はどんなことがあってもあなたの味方だ、いつもあなたと一緒にいる、いつまでも一緒にいる、決して見捨てはしない、イエスは私たちにそう語ってくれている。
私たちが聞くべき御言葉はそんなイエス・キリストの言葉だ。イエスの言葉はまさに、私たちの人生を照らす光であり、私たちを生かす力でもある。
そのイエスの言葉をしっかりと聞いていこう。