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礼拝メッセージより
安息日
安息日に歌われた讃美歌だそうだ。4節に「十弦の琴に合わせ、竪琴、琴の調べに合わせて。」とあるように、そんな楽器の伴奏付きだったようだ。
安息日を厳守することはバビロン捕囚以降からだそうで、バビロンでは神殿で行われていた祭儀は禁止されていたけれど、安息日に集会を開いて祈りを捧げるようになり、そこから安息日ごとに集会所で集まって礼拝するようになったそうだ。
悪人
主に感謝をささげること、御名をほめ歌うこと、慈しみとまことを宣べ伝えることはいかに楽しいことかと告げる。この楽しいは良いと訳している聖書もあるそうだ。主に感謝し御名をほめ歌い、慈しみとまことを述べ伝えることは楽しいことでもあるし、良いことでもあるというのだ。
ちょっと余談だけれど、4節の琴の調べという言葉が出てくる。この調べは口語訳では「たえなる調べ」と訳しているけれど、原語では「ヒガヨン」という言葉だそうで、音楽用語の「グリッサンド」を意味しているのではないかという説明があった。グリッサンドとは音を上げたり下げたりするときにドレミファの音階のように階段状ではなく、隙間なくすべらせるように音を上げたり下げたりすること。余談でした。
それに続けて御手の業を喜び歌うと言っている。しかしその御手の業は、愚かな者はそれを知ることなく、無知な者はそれを悟ろうとしませんと言う。
そして神に逆らう者が野の草のように茂り、悪を行う者が皆、花を咲かせるにように見えても、永遠にほろぼされてしまいます、と言う。
愚かな者とか無知な者、続けて神に逆らう者、悪を行う者という風に、いろんな言い方をしているけれど、これはきっと同じ人たちのことを語っていると思う。
その御手の業を知らず悟ろうともせず、神に逆らい悪を行う者の方が栄えているように見えても永遠に滅ぼされる、あるいは散らされて行くと言う。
善人
しかしあなた(神)は、悪人たちがわたしに迫ってきたとしても、私の角を野牛のように上げさせ、豊かな油を注ぎかけてくれるだろうと語る。
神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえる、それらの木のように主の家に植えられて茂る、そして白髪になっても実を結び、命に溢れ、いきいきとして、私の岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がないと述べ伝えるでしょう、と言う。
なつめやし
高さ15mから25m、葉は羽のようになっていて3mにもなり、樹齢は100年から200年に達することもあるそうだ。なつめやしの果実は英語で「デーツ」というそうで、3cm×7cm位の楕円球形をしているそうだ。このデーツはお好みソースの原料にもなっているそうだ。
レバノン杉
良質の木材で、杉という名前がついているがマツ科、高さは40mほどにもなって、樹齢は1000年に及び、樹齢3000年以上の木があるそうだが、乱獲で激減していて、現在は保護の対象となっているそうだ。
御手の業
今日に詩はバビロン補囚後に再建されたエルサレムの神殿での礼拝の時に歌われていたようで、白髪になってもという言葉があるように、晩年を迎えた詩人が自分の人生を振り返っての言葉だという説明があった。
晩年になって、もう大部晩年になってるけど、人生を振り返ってこんな風に言えたらいいなと思う。けれど現時点ではこんなこととても言えないといった気分だ。
神の御業はどこにあるのか、神の計らいはどのようなものなのか、それがわからなくて、捜し回っているような気がしている。神を信じていると思っているけれど、本当に信じているんだろうか、本当に信じていると言えるのかなんてことも思う。
世の中は不正もいっぱいあり、正直者がバカを見るというようなことも多い。ずる賢い者の方が栄えているように見える。それこそ神がそんな者たちを滅びしてくれるなら、罰を与えてくれているなら、神の正しさは本物だと思えるし、神はいるのだと思う。けれど実際にはとてもそうなっているようには見えない。
希望
でもこの詩人は、そんな風に見えていたとしても、神に従う人は主の家に植えられ、神の庭でなつめやしのように茂り、レバノン杉のようにそびえると言う。年老いて白髪になっても実を結び、いきいきとし、主は正しい方、御許には不正がないと述べ伝えるでしょうと語っている。
一体何があったからこんなことを言えるんだろうか。何を経験したからこんなことを言っているんだろうか。
バビロン補囚から解放されて帰還したことを言っているんだろうか。それとももっと個人的な何かがあったからなんだろうか。詩人の人生がどのようなものだったのかは分からないけれど、兎に角この詩人は、神の慈しみとまことを受け取ってきたことを伝えている。敵に囲まれているかのような苦しい状況の中にあっても、神の慈しみとまことを受け取ってきたということだ。この神の慈しみとまことを受け取ることで、白髪になっても実を結び、命に溢れ、いきいきと生きることができると言っている。
先人もきっとそうだったと思うけれど、私たちも神の御業も計らいもなかなか見えないという中で生きている。思うようにいかないことがいっぱいある中で、おかしいじゃないか、間違っているじゃないかと思うようなことだらけの中で生きている。神はどこにいるのか、どうして行動を起こさないのかと思うような中で生きている。
でもこの詩人は、大丈夫だ、神に従う人に神は必ず恵みを与えてくれる、年老いても実を結びように、いきいきと生かしてくれる、そう告げている。
厳しい現実を生きている中で、神に生かされてきた先人の声を聞いていく、そしてそこから神の御業、神の慈しみとまことを思い返す、そして神に感謝をすること、それが毎週の礼拝なんだろうと思う。
御計らいはいかに深いことでしょうなんて言われているけれど、神の御業、神の計画は私たちには深すぎて見えないような気がする。けれど神は必ずその御業の中で、計画の中で私たちを生かしてくれている。そこに希望がある、そこに希望を持って生きていきなさい、そう告げられているような気がしている。
神は私たちひとりひとりにどんな計画を持っているのだろうか。それを楽しみにしていきたいという気持ちになってきた。
新約聖書ローマの信徒への手紙5章1-5節にこんな言葉がある。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
白髪になっても結ぶ実、それはやっぱり愛かなと思う。神の愛が私たちの心に注がれているからこそ希望を持つことができるのかなと思う。神が愛してくれている、大事に思ってくれている、その神が私たちを支えてくれている、その神の計画の中に生かされている、そこに究極の希望があると思う。