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礼拝メッセージより
王
どこかの国の王族があなたの仕事は何ですかと聞かれた時に、世界で二番目に古い職業だと答えたなんて話しを聞いたことがある。旧約聖書にも出てくるけれど王というのは実際随分古くからある職業のようだ。
イスラエルでも王がいた時代があって、旧約聖書には列王記なんていう王の歴史をまとめたような書物もある。神が王を通して地上を支配するというような考えは多くの国にあったようで、イスラエルでもそんな考えを持つ人もいたようだ。今日の詩編でも神が王を通して正しく国を治めることを願っているようなことが書かれている。
即位式?
この詩は王の即位式のものだろうと、ものの本に書いてあった。
1節では神に向かって、あなたによる裁きを、あなたによる恵みの御業を、王と王の子にと願っているところなども、即位式にふさわしいなと思う。
この「裁き」というのは「ミシュパート」という言葉で「公正」とも訳され、裁判や政治における公平な取扱いをするということだそうだ。そして「恵みの御業」というのは「ツェダカー」という言葉で「正義」とも訳されて、神との契約に沿った正しい関係と保つということだそうだ。公平な政治をして、神にも忠実に従う王であるようにと願っている。
そして2節では、正しく民の訴えを取り上げ、貧しい人々を裁くようにと言っている。別の訳(岩波訳)だと、「彼が裁きますように、あなたの民を義をもって、あなたの困窮者たちを公正をもって。」となっている。1節で言われている義と公正をもって民、貧しい人々を裁くようにと言うことを願っている。
続けて、山々が民に平和をもたらし、丘が恵みをもたらしますように、とあって、どうして山々や丘がもたらしてくれるのかよくわからないけれど、どちらも神のいる高いところからということかなと思うけれど、王が義と公正をもつことで平和と恵みがもたらされるということなのだろう。
続けて4節では再び貧しい人々や乏しい人の子らのことに言及している。
王
その後5-7節では王が太陽や月のように永らえること、地を潤す豊かな雨となるように、そして豊かな平和に恵まれるようにと願っている。
続いて8-11節では周りの国々も支配するようにというような話しになっていて、兎に角イスラエルが強い国になることを願っているみたいだ。
ここにはタルシシュとかシェバとかセバとかいろんな地名が出てくるが、タルシシュは地中海の西の方の地名で、シェバは南アラビアの王国、セバは北アフリカの王国らしいそうだ。今で言えばタルシシュはスペイン、シェバはサウジアラビア、セバはエチオピアあたりになるそうだ。当時のイスラエルから見ると世界の端から端までという感じなんだろうなと思う。全世界を支配するような強力な国を司る、そんな王になって欲しいと願っているということのようだ。
弱い人
王には自分達の国を強い国にして欲しいと願っているのかと思うと、12-14節には、再び弱い人や貧しい人や乏しい人のことを王が助けるように、顧みるようにという話しになっている。
平和
国を強くする強い王を求めつつ、社会的弱者に目を向ける王をも求めているということだろうか。
平和とは他の国から攻められない、戦いがない、と言うことだけではなく、社会から取り残される者がなくなる、弱い人を見捨てることがなくなる、弱い者をも大事にするということでもあるということなんだろうと思う。
王たち
1節ではこの詩はソロモンの詩と書かれていて、詩の内容がソロモンにふさわしいと考えられているようだ。旧約聖書によるとソロモンは神に知恵を求めたと書かれていて、その知恵によって一人の子供を自分の子供だと主張する二人の女性に対して、子供を2つに引き裂いて分けろと言って、そんなことをするなら相手の方に差し出すと言った方が本物の母親だと見抜いた、なんてことも書かれている。ソロモンはエルサレムで神殿も造ったけれども、それよりも長い年月をかけて立派な宮殿を造ったり、外国との政略結婚や、大勢の妻を持ったり、やがて偶像礼拝をしたりするようになったようだ。ソロモンは実際にはこの詩編で願われている王ではなかったようだ。
イスラエルでは恐らく最も立派な王と考えられているソロモンの父のダビデも、サムエル記や列王記を見ると、いろんな策略をねって都合の悪い者を殺させたり、部下の妻を寝取るためにその部下の命を奪うようなことまでしたと書かれている。ダビデも決して清廉潔白な信仰深い王ではなかった。
結局はこの詩編に書かれているような、神の公正と正義を実現するような王は存在しなかったようだ。王もそうだけれど、王ではなくても権力を持つとその権力を守ることが第一となり、弱い人や乏しい人のことを真剣に考える、顧みるようなことは出来ないのだろうと思う。
今の世界を見ても、権力者は自分や自分達仲間が潤う仕組みを守ることを第一にしていて、庶民のこと、今困っている人のことなど二の次になっているような気がして仕方がない。
結局は王を通して神がこの世を司るとか、王が全く神の意志に沿って民を導くなんてことは幻想でしかないんだろうと思う。
平和の素
この詩編についてのいろんな人の説教も少し見たけれど、やっぱりイエス・キリストのことを書いてる人が多かった。弱い人、乏しい人の側に立って、そんな人たちを真剣に顧みたのは結局はイエス・キリストだけだった、理想の王は結局はイエス・キリストだった、というようなことが書かれていた。
理想の王は確かにイエス・キリストだなと思う。でもこの詩編に書かれているような王とは全然違うところもある。それは全世界を屈服させ、いわば上から支配する、そんな王ではないというところだ。イエス・キリストは上からではなく、下から、一番深い下から全てを支える、そんな方だ。
イエス・キリストは弱く貧しく乏しい者に寄り添い、そんな者たちを徹底的に愛する、そんな仕方で世界を下から支えている。
愛すること、実はそれこそが平和の素なんだろうと思う。イエス・キリストは神の愛を私たちに届けてくれている、私たちを徹底的に愛してくれている、その愛こそが平和の素なんだろうと思う。
平和ってのは上から、力を持った者によって与えられるものではなく、実は下から与えられるものではないかという気がしている。力を持たない私たちだけれど、その私たちが隣人を愛していく、本当の平和はそこから生まれていくのではないか、それこそが平和の素なんだろうと思う。
あなた自身が平和の素なのだ、神の愛をもらっているあなたが隣人を愛する、そこから平和が始まる、だからあなた自分が平和の素なのだ、そんなことを言われているような気がしてきた。
イエス・キリストがそうしていたように、弱い隣人、貧しい隣人、悲しんでいる隣人、苦しんでいる隣人、そんな隣人のことをもっともっと顧みていきたい、愛していきたいと思う。