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礼拝メッセージより
つながり
人生って人間関係だなって思う。色んな人と出会っていくのが人生だなと思う。そしていろんな人とどのようなつながりを持つのかによって人生はいろいろと変わってくる。
一番初めの出会いは親、特に母親ということになる。そして親との関係がとても重要みたいだ。親とどういう関係を持てるのか、どういうつながりを持てるのか、それはその後の人生に深く関わっていくようだ。
年寄り
最近歳を取るってどういうことなのかとよく考える。歳を取るにつれて人間の姿形はそれなりに変わっていく。そして心も同じように歳を取るにつれて変わっていくのかと思っていた。子供の時には子供の心があるけれど、歳を取るにつれて子供の心はなくなっていくのかと思っていた。老人になると若いときの気持ちというか考え方というか感じ方というか、そういうものはなくなってしまうのかと思っていた。
でもどうもそうじゃないような気がしている。男はいくつになっても子供の心を持っているなんていうようなことを聞いたことがあるけれど、確かに子供の時に持っていた感覚みたいなものって、未だに残っているような気がしている。老人のことを年寄りともいうけれど、小さいときから、10代、20代、30代、、、とそれぞれに持っていた感覚が全部残っていて、今だと60代の感覚だけじゃなくて、それぞれの年代の感覚がギュッと詰まっているような気がしている。まさに歳が寄っているという感じがしている。
余談だけれど、スーパーのバイトに行っていて、店長やそれぞれの部門の責任者の人たちの指示を聞いて仕事をしていて、自分では彼らの部下のようなものだけれど、よく考えたらその人たちはみんな自分より年下だった。もちろん仕事上歳は関係ないけれど、部下の自分は彼らよりも年下のような気持ちでいる。彼らにとって歳を取っている奴に指示するってのはどんなものなんだろうか、なんて思ったりする。特になにかやらかしたときには注意しないといけないんだろうけれど、年取ったおっさんに注意するのって難しいだろうな、なんてことも思ったりする。
兎に角、そんな風に歳は取っても感覚は小さい頃からのものが全部残っていて積み重なっているような気がしている。だから小さい頃に感じた淋しさとか悲しさとかいうものもずっと残っていて、消えてなくなることはないんだろうなと思う。三つ子の魂百までというけれど、本当にそうなんだろうなと思う。
僕は祖父母と両親と兄貴のいる家に生まれてきて、我が家の口癖は「もったいない」だったなと思う。家族がそういう意味で言ってたのかどうかは分からないけれど、僕自身はいつの間にかお金を使うことは勿体ないことという気持ちが根付いている。出来るだけ安いものを買う、できるだけお金を使わないことが良いことのような気持ちが今でもある。安物買いの銭失いってことも多いけれど。
だから今でもタクシーを使うなんてかなり勇気がいるけれど、人に会う時に遅れるかもしれないという時にはタクシーを使う、それは全然無駄じゃないというような話しを聞いた時にはびっくりした。お金よりも大事なものがあるということは分かっているつもりだけど、何とかしてお金を使わないようにということばかり考えてしまう。
実はうちの猫が一月ほど前から寝たきりになって、19歳だったし、もうそれほど長くはないだろうと思ってたら金曜日の夜に死んでしまった。うちの息子はそれを聞いてから、3回山口から帰ってきて様子見て一泊か二泊してまた帰っていった。もし自分が同じ立場だったら電車賃を惜しんでそんなに帰ることはないような気がするけれど、そんな変なもったいないが遺伝しなくて良かったなと思っている。
詩編
今日の詩編はエルサレム神殿に十戒の刻まれた石の板の入った神の箱を運び入れたときの歌か、あるいは神殿に巡礼に訪れたときの歌ではないかと考えられているようなことが書いてあった。
その神殿に入ることができるのは誰か、「それは潔白な手と清い心を持つ人」なんてことが言われている。そんなこと言われたら誰も入れないような気もするけれど、「それは主を求める人、御顔を尋ね求める人」なんてことも言われていて、そっちの条件なら入れるかもという気がしている。
旧約聖書を読んでいると、当時のイスラエルの人たちは神さまとはこの詩編にあるように天地を創造した方であって、そのすべてを支配している方であると考えていた。その神とつながりを持つところが神殿であると考えていたようだ。
しかしまた神とつながりを持てるのは潔白な手と清い心を持つ者であり、罪や汚れを持つ者はそんなつながりを持てないとも考えていたようだ。神の命令にちゃんと従う者こそ神が祝福してくれて、命令に背く者には罰が与えられると思っていたらしい。
けれどどうしても人間は神に背いてしまうことあるし、知らない間に背いてしまっていることもあるかもしれない、なんてことも考えたようだ。そのため、背きの罪を赦してもらうために生け贄を献げて赦してもらうことになったようだ。
当時の人たちにとって神とは、献げ物をすることで自分が清廉潔白とされることで初めて向き合える存在だったんだと思う。罰をうけないように怒られないように宥めておかないといけないような恐い存在だったんだと思う。
父なる神
でもイエス・キリストは、神はそんな存在ではないと語った。
イエス・キリストは天の父よと祈れと言われた。神は放蕩息子を待ち続けている父親のようなものだと言った。
イスラエルの人たちも神を求めていたんだと思う。今日の詩編にあるように神を求める者を神は祝福することは知っていたんだと思う。でもやはり神は恐い存在だったんだと思う。天の高いところにいて自分達の間違いを見逃さない恐いものだったんだと思う。
だから罪や汚れを落として正しくしてから神に向き合おうとしていた、清廉潔白ででないと神は受け入れてくれないと思っていたようだ。つながりを持つことで恵みをもらえると思いつつ、意に沿わないとどんな罰があるか分からないという恐れも持っていたんだと思う。
でもイエス・キリストはそうじゃないと伝えている。私たちを愛している、神の方から近づいて、罪も汚れもひっくるめて、私たちをまるごと受け止めて下さっている、そんな間違いだらけの私たちを愛してくれていると伝えてくれている。
神は放蕩息子を待ち続ける父親のように、私たちを徹底的に愛してくれている。神の方から私たちとのつながりを持とうとしてくれている。
神から愛されている神の子として、その神の愛を受け止め、感謝と平安の内に生きていきたいと思う。