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礼拝メッセージより
詩編23編
この詩では、最初に主は羊飼いと言われていて、ずっとその話しかと思っているといつのまにか羊飼いの話しではなくなっているようだ。何の説明もなしに場面がころころ変わっていくというのは聖書にはよくあっていつも混乱する。
この詩編では主について、1-3節前半は羊飼いが羊を水場に導く方であること、3節後半-4節では、それまで「主は・・」と言ってたのが、ここから「あなた・・」となっているが、試練の中でこそ共にいてくれる方であること、そして5-6節では苦しめる者に追いかけられるような時にも守ってくれる方であるということが語られている。
羊飼い
先ずは、主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない、とこの詩編の作者は語る。呉では羊を見ることもほとんどないし、羊飼いなんて全然見たこともないけれど、当時のイスラエルでは羊は日常的に目にしていたようで、聖書にも羊はよく登場する。
羊は羊飼いに世話をされてどうにか生きていられる動物なんだそうだ。他の獣から身を守る大きな角も牙もなく、足も遅く、しかもひどく近眼で、移動する時も前の羊の尻尾を追っかけてやっとついていく位なのだそうだ。なので迷子になりやすいらしい。
パレスチナの地方は、川や湖の近くは緑があるけれども、基本的に荒れ野が多いそうで、特に乾期になると、羊飼いは羊をつれて草のあるところを探して移動するそうで、鞭や杖を使って、羊たちを誘導していったり他の獣たちを追い払ったりするそうだ。鞭と杖と訳している言葉はどちらも棒を意味する言葉で、鞭は他の獣を追い払う棒で、杖は羊を誘導したり穴に落ちた羊を引っ張り上げたりする時に使う棒のことだそうだ。
欠けることがない
この詩編の作者は、神はそんな羊飼い、原文ではここは「私の羊飼い」となっているそうで、主である神は私の羊飼いである、そして私には何も欠けることがない、と言っている。
欠けることがないなんてどうして言えるんだろうかと思う。自分には欠けることばかりだという気がしている。僕はあれもこれも足りないと思うことが多い欲張りで、いつも自分が持っていないもののことばかり考えている。
欲しいものはいっぱいある。あれもこれも手に入ったらどんなに嬉しいだろうなと思う。大きな車に大きな家に大きなテレビに、美人の妻に、素直な子どもを持ちたいと願ったりする。それにすぐれた知能と健康な格好いい顔と身体と、それからみんなからの賞賛も欲しい。どんだけ欲張りなんだと思うけど、欲しいものって限りなくある。なのにいろんなものがいっぱい欠けているような気がしている。
この詩編が言う欠けることがないとはどういうことなんだろうか。
人間の願いなんてほとんど無尽蔵に近いと思うけれど、そして願ったとおりに、祈ったとおりに神がなんでも与えてくれたらいいのにと思う。自分の願っているものが手に入らないという意味での欠けということだときっと欠けは誰にもいっぱいあるだろうと思う。
この詩編の言う欠けとは、そういうものではなく、自分に必要なものに欠けがない、自分に本当に必要なものは欠けがなく全部与えられている、そういう意味での欠けることがない、ということなんじゃないかと思う。
この詩編の作者が何歳でこの詩を作ったのかわからないけれど、それまで生きてきた中で、自分の人生を振り返ってきた中で、自分に本当に必要なものはみんな与えられてきた、欠けたことは何もなかったということなんだろうと思う。
そして何より欠けることがなかったのは、「あなたがわたしと共にいてくださる」ということ、つまり主が共にいてくれる、神が共にいてくれるということに欠けることがないということだったんじゃないかと思う。共にいてくれないというようなことはなかったということだと思う。だからこそ死の陰の谷を行くときも、原文では暗黒の谷だそうだけれど、そんな時でも災いを恐れないと言っているのだと思う。
敵の前で
そして5節以下で、主はわたしを苦しめる者を前にしても食卓を整えてくれる方だと言う。頭に香油を注ぐというのはお客をもてなすというこの地方のしきたりだそうだ。口語訳では、苦しめる者を敵と訳していたと思うけれど。
これについてこんな物語を書いていた人がいた。
「ある人が西アジアの砂漠を旅していた。強盗が目をつけ、追跡をはじめた。砂漠の旅人は周囲に気を配りながら旅するので、自分が追いかけられていることに気付いた。必死で逃げる旅人。ずんずん距離を縮めてくる強盗。このままではためだ、やられてしまうと思ったとき、その先に幾つもテントが張ってあるのを見た。砂漠の一族の野営地である。珍入者をどう扱うか不安であったが、他には生き延びる術を持たぬ旅人は、意を決してテント村に入っていった。砂漠の民は出てきて、旅人を捕らえ、一族の主人のもとへ連れて行く。しかし、予想に反して主人は旅人を受け入れ、すぐそこまで迫ってきている強盗に対処するある提案をした。それが「敵前の宴」である。
主人のテントの前には大きなじゅうたんが広げられ、様々な食べ物が並べられる。一族の主だった者たちが座った席の中央、主人の隣りに旅人は案内されて座る。旅人が出てきたところを再び追跡、襲おうとしているのか、強盗は遠巻きに様子をうかがっている。その強盗に見せつけるように宴は続く。このように砂漠の一族の長が宴を開いたとなれば、強盗は手出しできない。旅人を襲うことは、この主人の客人を襲うこととなり、強盗は主人の敵と見なされる。「もし、この客人に手出ししたならば、私がだまっちゃいない。一族の名誉にかけて。」という訳である。あるいは、強盗は自分が特定されてしまったのではないかと恐れて、襲撃を思いとどまる。強盗の身が特定されてしまっては、復讐はどこまでも追いかけてくるだろう。(いったん客として受け入れた者については、どこまでも庇護するという慣習を「客人法」と言います。)」
神はそんな風に、私たちが私たちを苦しめる者に追われて逃げ場もなくなったような時にも守ってくれる、私たちを大事な客として、自分の味方としてもてなしてくれる、そして誰にも手出しできないように守ってくれているというのだ。
それはまさに羊飼いが自分の羊を守っているのと同じことのようだ。
自分の羊として、大切な羊として何としてでも守る、神はそんな思いを持って私たちと共にいてくれているということだ。恵みと慈しみはいつもわたしを追うとは、私たちは神のそんな熱い思いに包み込まれているということだと思う。だから主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろうと語る。
主の家とは当時で言えば神殿ということなのかな。今で言えば教会、みんな教会に帰っておいで、ということにしといてほしいという気持ちもあるけれど、どの場所かということよりも、神の恵みと慈しみに包まれるところこそが主の家ということだろうと思う。
羊として生きる
主は私の羊飼い。神は羊飼いのように私たちを守り導いてくれる方。ということは私たちは羊。私たちは自分を守る力もない、遠くのものを見分ける視力もない、ひとりでは生きていけない、そんな弱い羊として生きている。
空腹になることも、渇きを覚えることもある。暗黒の谷を行くこともある。苦しめる者を前にすることもある。病気になったり、怪我をしたり、いろんな失敗をいっぱいする。或いは誰かに傷つけられたり、誰かを傷つけたり、思うようにいかないこともいっぱいで、どうしたらいいのか、どっちに進めばいいのか分からなくなる。
でもそんな時にも私たちには飼い主がいる、神が共にいて正しい道に導いていてくれていて、この神の恵みと慈しみ、愛と憐れみという熱い思いを注がれている。
だから私たちは羊として生きていけばいい、弱い者として生きていけばいいということだと思う。強い獣になる必要もないし、そうなれない自分を嘆くこともない。弱い羊だけれど、弱い羊として、飼い主の声を聞き、飼い主に支えられ守られていることを喜び、感謝して生きていきていけばいいのだと思う。
今回そんなことを思わされている。
この詩を書いた人もそんないろんな苦しいことを経験してきたのだと思う。そしてそんな経験を通して、神の支えや守りを経験し、だからこそそのことを後世に伝えようとしたんだと思う。その先人の思いをしっかりと聞いて、そしてまた、いつも共にいてくれている、いつも私たちを大切に大事に思ってくれている私たちの主の声をしっかりと聞いていきたいと思う。