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礼拝メッセージより
宇宙
中四国の牧師会を大三島でしたことがあった。廃校になった学校の校舎を泊まれるようにしていた。結構な田舎だったので夜は満天の星が見れて、天の川もはっきり分かった。
旧約聖書が書かれた時代では、空はドームになっていて、そこに太陽や月の通り道があって、夕方西に沈んだ太陽はトンネルを通ってまた東の方へ移動するという風に考えられていたそうだ。この詩編で太陽の幕屋なんて言葉が出てくるけれど、太陽も夜はテントに入って休むと考えていたのかなと思う。
ちょっと余談だけれど、夜空にはオリオン座とかはくちょう座とかいうふうに、多くの星はいつも同じ位置に見える。それとは別に特別な動きをする星が当時は7つ分かっていた。その7つが太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星だ。それが地上を支配するとか地上に影響をもたらすというような考えもあったそうだ。その7つの星の名前が未だに曜日の名前、日月火水木金土となっているのも面白い。
旧約聖書の創世記の創造神話もそんな宇宙観をもとに書かれているみたいだけれど、今分かってる宇宙観とは随分違うけれど、要するに旧約聖書ではその世界全体、宇宙全体を神が創造したということを告げている。
御手の業?
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」なんだかとっても格好良い文章だなあと思う。
でもいつも思うけれど、夜星を見ても、昼空や雲を見ても、そこに神の栄光や御手の業は見えてこないよなあと思う。見える人には見えるんだろうか、なんて思うけれど、不信仰は僕には見えてこない。大三島で満天の星を見たときも、すごい数の星でびっくりしたけれど、この光が実は何万年も前に星を出た光は今地球に届いていて、何万年も前の姿なんだ、なんてことを考えるとなんだかすごいなあ、宇宙ってどれだけでかいんだろうとは思う。
ただ見ているだけで神の栄光や御手の業は見てないこないんじゃないかな。やっぱりそれを神が創ったと教えられて初めて、そこに神の栄光や御手の業を感じることができるんだと思う。
主の教え
そこで、なのかどうかよくわからないけれど、8節以下では主の律法とか定めとか命令とか戒めという言葉が出てくる。よく見ると8-9節には律法、定め、命令、戒めと同じような意味なのに全部違う言葉になってる。なかなかオシャレだな。
要するにそんな主の教えというか主からの言葉があって人間は初めて、この宇宙から神の栄光や御手の業を感じることができるんじゃないかと思う。
そしてまたその主の教えは、完全で魂を生き返らせ、真実で人に知恵を与え、まっすぐで心に喜びを与え、清らかで目に光を与えるものだという。
さらに主への畏れは清く、主の裁きはまことでことごとく正しい、純金より望ましく蜂蜜よりも甘い、なんてことも言う。ちょっと言い過ぎじゃないかという気もするけれど。
なだめる?
13節以下では、知らずに犯した過ちや隠れた罪から清めてほしい、驕りから引き離して欲しいと願う祈りとなっている。
旧約聖書を読んでいると、神は恐い存在で自分達に罰を与える存在という風に考えているように見える。神に背いたり、命令に従わなかったりすると罰が与えられるので、そうならないようにビクビクしているように感じることもある。神に背くことが罪ということなんだろうけれど、その罪を赦してもらうために生け贄を献げるということになっていたようだ。
喜びを与える
そうすると神とはなだめて、鎮めておかないと何をされるか分からない恐い存在なのかと思うけれど、でも今日の詩編では神の教えは完全で魂を生き返らせ、真実で無知な人に知恵を与え、まっすぐで心に喜びを与え、清らかに目に光を与えるものだという。
ということは、神はなだめておかないと何をされるか分からない恐い存在ではなく、自分達を生き返らせ、喜びを与える、そんな存在だと言っている。
そのことをはっきり伝えたのはイエス・キリストなのではないかと思う。イエス・キリストは神の愛を伝えてくれた。
旧約聖書にもその片鱗はあるということかなと思う。でも旧約時代の人たちは神の愛よりも神の怒りとか裁きとか懲らしめということに目を奪われてしまっていたのかな。あるいは何か悪いことがあると、これは神の裁きだ、神に背いた報いだという風に思う癖がついていたのかなという気もする。
天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す、と言う。でもそれは神が私たちの間違いをいつも見つけるとすぐに罰しようと手ぐすね引いて見張ってるような恐怖を感じるということではなくて、私たちを大事に大切に思っている、喜びを与えようとしている、そんな愛を感じるということだと思う。