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礼拝メッセージより
見えないもの
大切なものは目に見えない、と言ったのは星の王子様だったかな。
最近よく思うけれど、どうやら大切なものは見えないものらしい。建物の基礎も見えないし、鉄筋コンクリートの建物もコンクリートの中には相当多くの鉄筋が入っているけれどそれも見えない。見えない基礎や鉄筋がしっかりして
ないと、いくら見映えをよくしてもその建物はすぐ傾いてしまう。
一時期バックボーンという言葉をよく耳にしていた時期があったような気がするけれど、気のせいかな。最近はほとんど聞かなくなった。バックボーンとは背骨だけれど、精神的な支柱、支えの意味もあるそうだ。外からは見えないけれど、背骨がしっかりしてないと立っていられないようだ。
幻
エゼキエル書40章から、エゼキエルがエルサレムの神殿についての幻を見せられる。そこには「我々が補囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目」と書いてある。つまり第一回バビロン捕囚から25年、紀元前573年頃のことだそうだ。エルサレムは破壊されて神殿も燃やされてなくなっていた。そんな時に見せられた幻が神殿に神の栄光が帰ってくるという幻だった。
今日の箇所ではイスラエルの神の栄光が東の方から到来しつつあったと書かれている。この神の栄光は10:18-19に「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。」と書いてあって、どうやら神殿の東の門から出て行ったようだ。けれどその神の栄光が出て行った東の門から再び帰ってくるというわけだ。
つながり
イスラエル人たちは神とのつながりを全てを無くしていた、と思っていたのだろう。第一回の補囚の後はまだ神殿はあり、神の助けによってまた元の国に戻る、また以前と同じように独立するという希望を持っていたらしい。しかしその後の戦いに破れ、エルサレムの町も破壊されて神殿も焼かれてからは、その淡い期待もなくなってしまっていたのだろうと思う。
補囚されていても決して奴隷ではなく、それなりに自由も与えられていたそうなので、奴隷のような過酷な生活をしていたわけではないそうだ。苦しくて苦しくて、一刻も早く助けてもらわないとどうにもならない、ということではなかったようだ。それなりに生活できていたんじゃないかと思う。
それなりに生活はできていた、けれど何かが足りなかったんだろうなと思う。外側からはわからない芯というか背骨というか、それが足りなかったんじゃないかと思う。
やはりそこは自分達の居場所ではなかったんだろう。安住できる場所、安らかに過ごせる場所ではなかったようだ。自分達の居場所はバビロンではなくイスラエルだという思いをどこかで持ち続けていたんだろうなと思う。
でもどうしてこんなことになっているのか、どうして国が滅ぼされたのか、どうして補囚されているのか、どれほど真剣に考えたんだろうか。当時は強い神がいる国の方が戦いに勝つというような考えもあったようで、イスラエルの人たちも自分達の神よりも相手の神の方が強かったから負けたと思ったかもしれないと思う。神殿も破壊されてしまってからは、自分達の神は弱かったし、どこにいるのかもわからない、そんなことを思ったとしても不思議ではないような気がする。かつて先祖はエジプトから救い出してくれたのかもしれないけれど、案外あてにならないよなと思っていたのかもしれないという気がしてきた。戦いに負けたけれど、それなりに暮らせるから、バビロンにいることも仕方ないよなという気持ちだったのかもしれない。
そんな民に向けてる神はエゼキエルを通して語りかけたということかなと思う。神の力が弱いから国が滅ぼされたんじゃない、お前たちは神のせいにしているがそうじゃない、お前たちが間違っているから、神に逆らうようなことをするから、こんなことになっているんだ、ということを伝えたように思う。
そしてまた、お前たちのいるべき場所はそこじゃない、お前たちはイスラエルに帰るのだ、と告げているようだ。
イスラエルの民は、それなりに暮らしつつ、本当に大事なものである神との繋がりを失っていることに対して案外無頓着だったのかもしれないと思う。でもそれは背骨をないままの生き方だったのではないかと思う。
そんな民に向かって神は、エゼキエルを通して新しい神殿の姿と、そこにはかつて出て行ってしまった神の栄光が再び戻ってくるたということを伝えたということだ。そして9節では「今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む。」と告げている。
神との正しい繋がりを持つあなたたちと、これから神はずっと共にいると宣言している。
そしてエゼキエルの幻の話しを聞いて初めて、イスラエルの人たちは自分達のしてきたことを見つめ直したんじゃないかなと思う。そして神の思い、神の自分達に対する熱い思いを知ることになったんだと思う。そしてその神との繋がりこそが自分達を支えるバックボーン、背骨であることに気付いたんだと思う。
背骨
だいぶ昔聞いたのでかなり不確かだけれど、ある少女の話しを聞いたことがある。その子の母親はヨーロッパ中を駆け回っている女優だったかモデルだったかで経済的にはかなり裕福だった。ある年、その子の誕生日がやったきたけれど、母親は仕事で外国に行かないといけなかった。そこで母親はその子のために誕生日プレゼントにきれいな花瓶を送った。けれども少女はその花瓶を投げつけて割ってしまって、「私が欲しいのはお母さんよ」と言ったという話しだ。
物はそろっていても、溢れていても、大事なものがなければ空しいままだ。イスラエルの人達にとって、その大事なものがなんなのかを補囚を通して改めて知ったんじゃないかと思う。神殿を通して持っていた神との繋がりを、神殿を無くすことでその大切さを改めて知らされたんだろうと思う。だからその大切なものを求め続けてきたのだろう。
人生とか生活もそうなんだろうなと思う。財産をいっぱい持っていれば立派な人生に見える。勝ち組なんて言われ方もする。でも財産をいくら持っていても、しっかりした背骨がないと、人生もすぐに傾いてしまう。
イスラエルの人たちは神こそがその背骨だったのだということを、バビロン捕囚という苦しい経験を通して見つめ直したのだと思う。本当に頼るべきもの、本当に頼れるもの、それは見栄えの良いもの、見えるものではなく、神であり、神とのつながりであることを知らされたようだ。
信仰も見えない、神も見えない、でもそれがあるとないとでは全く違う人生になるのだろう。
人生の最後は祈りなんじゃないかという気がしている。何もかもなくして最後にできることは祈りしかないんじゃなかと思う。
だから祈る相手を持っている、祈る相手がいる、それはすごい幸せなことだと思う。
人生を支える背骨、神との繋がりという背骨をあなたたちに持って欲しい、そんな神の意志をエゼキエルは伝えたのだろう。それはまた私たちに対するメッセージでもあるのだろう。