【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
息
どこかの教会のメッセージに、日本語の聖書で聖霊と訳しているけれど、それが適切なんだろうか、それよりもヘブル語やギリシャ語の意味でもある「息」とか「気」にした方がいいんじゃないか、と書いてあった。
今日の箇所に出てくる霊と訳している言葉はヘブル語ではルーアハというらしいけれど、これは息とか風という意味でもあるそうだ。
霊と言われると幽霊の親戚のような得体の知れないおどろおどろしいもののような感じがするけれど、息とか風とかいうと爽やかなもののような気がする。
動物は息をしていることで生きていることが分かるけれど、聖霊というのは私たちを生かす神の息、あるいは神から吹いてきて私たちを生かす風というか力というようなものなのではないかなと思う。
枯れた骨
今日はエゼキエルが見せられた幻の話しだ。ある時主の霊によってある谷の真ん中に降ろされた。その谷は骨でいっぱいであった。そしてその骨は甚だしく枯れていたという。骨って枯れるんだろうか。人間の骨を見るなんてことはない。火葬場で見るくらいで、焼かれてからからになってるみたいだけれど、自然に朽ちる骨はやっぱりだんだん枯れていくんだろうか。そうすると枯れた骨ということは死んでからだいぶ時間が経った骨ということになるようだ。
主は、これらの骨は生き返ることができるか、と言われたがエゼキエルは、あなたのみがご存知です、と答えた。何が聞きたかったんだろうかと思う。無理に決まってると言わせたかったのかなあ。この問答はなんなんだろう。なんだか妙な問答だなと思う。
主は、骨に向かって主の言葉を語れという。その内容は、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む、するとお前たちは生き返る、そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる、ということだった。「わたしが主であることを知るようになる」ってのは14節にも同じようなことが出てくるけれど、どうもこれはエゼキエルに度々出てくる決まり文句みたいだ。
実は5節から9節までに出てくる「霊」という言葉は、口語訳では「息」と訳しているみたいだ。1節と14節は口語訳も「霊」と訳している。どちらもルーアハという言葉みたいだけれど、冠詞がつくのとつかないのとで別の訳にしているようだけれど、その違いはよくわからない。口語訳では神の霊の時に「霊」と訳して、そうじゃない時に「息」と訳しているのかな。
それは兎に角、エゼキエルが命じられたように預言すると、そうすると骨が骨が近づいて、筋に肉ができて、皮膚もできた。でもその中には霊がなかったという。
霊を吹き込むと言ってたのにどうして霊がないのか、と思った。6節を見ると、そこには先ず骨に筋と肉と皮膚をつけてその後に霊を吹き込むと書いてある。どうも5節の、お前たちの中に霊を吹き込みと生き返る、という言葉が余計だなという気がする。
それはさておき、そこで主は霊に向かって、これらの殺されたものの上に吹き付けよ、そうすれば生き返る、と預言しなさいと言われ、その通りすると霊が彼らの中に入り生き返り彼らはとても大きな集団となった。
そして主は、今見せたのはイスラエルのことだと言う。彼らは自分達の骨は枯れて、望みもなくなった、もう滅びるのだと言っている。そんな彼らを墓から引き上げてイスラエルの地へ連れて行く、と神は言うのだ。
バビロン捕囚
実際補囚された民がどんな状況だったのかというと、王から課せられた労働はあったそうだが、強制労働ばかりの奴隷のような生活を過ごしていたわけではなかったそうだ。
政治活動は禁止されたけれど、商売なども比較的自由であったらしい。経済的に苦しい人もいたようだが、だんだんとバビロンに適応して、いろいろな職業につくようになり、やせた牧草地で農業をしていたイスラエル時代より裕福になるような民も多くなってきたそうだ。
そうすると経済的にも労働環境も枯れた骨といわれるような状況ではないようにも見える。しかし彼らは、我々の望みはうせ、我々は滅びる、なんてことを言っていたらしい。経済的な問題がなければそれで大丈夫というわけではないらしい。お金さえ足りていればそれ以上何か問題はあるのかと思ったりもするけれど、どうもそうじゃないみたいだ。
霊、風、息
今日の聖書の話しの中で、骨がくっついて肉ができて皮膚もできたけれどもその中に霊がなかった、という話しがあった。肉体としての人間は完成されても、それだけではまだ足りないものがあるということだろう。ここで言われている霊というもの、それが吹き付けることで初めて生きるという状態になる、そういうものがやはり人間には必要なのだということなんだろうと思う。
最初に言ったように、霊というとなんだか幽霊みたいなものを想像してしまうけれど、そうじゃなくて神の息、神から与えられる命の素とでもいうようなもの、それがやっぱり必要なんだろうと思う。
そんな神の息によって私たちは生かされているいうこと、ただ心臓や内臓といった身体が動くようになるということよりも、神の息を吹きかけられることによって心を持つようになる、心が動くようになるということだろう。
バビロンへ補囚された民たちは、神殿も破壊されエルサレムの城壁も崩されて、遠い異国の地へ連れてこられている。特に神殿という、自分達と神との繋がりの目に見える象徴をなくしてしまっている。神との関係は絶たれた、神との関係を持つすべはもうない、もう神に望みを置くことはできない、神は助けを求めることもできない、自分の力だけで生きなくてはいけない、しかし無力な自分がこれからどう生きていけばいいのか、そんな思いでいたのではないかと思う。
経済的にはそれほど困っていなかったのかもしれないが、頼るべきものというか、確かな基盤を見失っているような状態だったんだろうと思う。将来に対する不安を抱えて、そんな生きる屍のような思いで過ごしていたということなんだろうと思う。だからこそエゼキエルは骨だらけの谷におろされるという幻を見せられたのだろうと思う。
そんなイスラエルの人達を私はもう一度生き返らせる、そして自分達の土地へ住まわせる、そう言われている。それはイスラエルの人たちに希望を与える言葉だったに違いないと思う。
希望
新約聖書のコリントの信徒への手紙一13:13に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」と書かれている。
希望があれば人間は生きていける。昔どこかで聞いた話しだけれど、自分の家が火事で焼けてしまった時に、これで星がよく見えるようになった、と言った人がいたそうだ。何もかもなくしても、少しでも希望があれば生きていけるだろうと思う。兎に角希望さえあれば一歩を踏み出せる。
しかしその希望をなかなか持てないのも現実でもある。思うようにいかないことが実に多い。 教会の財政も厳しいし、礼拝の人数も減るばっかりだし、そんな中で希望を持ち続けることができるのだろうか。
教会のこともそうだけれど、個人的にも経済的なことであったり、健康であったり、人間関係であったり、みんなそれぞれにいろんな苦しい大変なものを抱えて生きているだろう。
【人は、自分の困難を数えることだけを好む。
自分の喜びを数えようとしない。
(フョードル・ドストエフスキー/ロシアの小説家・思想家)】
ドストエフスキーが言うように、困難なことばかりに目を奪われてしまいがちだ。それに心を奪われてしまいがちだ。
しかし私たちひとりひとりも神の霊を受けている、神の息を吹きかけられている、そうやって神に命を与えられて神に生かされているということを教えられたような気がしている。
神に生かされている、だから私たちは決してひとりぼっちではない。神から命をもらって生きている、今も神から息を吹きかけられて生かされているのだ。
私たちが絶望の淵に立たされていると思う時、全く未来が見えない全く希望を持てないと思う時、そこにも神の霊が、神の息が、神の風が吹いている。私たちはどんな時も、その息を吹きかけられて生かされているのだ。