礼拝メッセージより
状景
ネットを見ていたら面白いクイズがあった。クイズというか算数の問題みたいなものだけれど、ある人が300円財布に入れてパン屋さんにいき、そこで130円のあんパンを買いました。おつりはいくら貰ったでしょうというクイズ、クイズというよりもお話しだけど。
答えが二通りあって、理系の人間は170円と答えて、文系の人間は70円と答えると書いてあった。
僕もすぐ170円だろうと思ったんだけれど、結局クイズを聞いても、文字とか「300ー130=170」という式を考えるだけで、そのクイズの場面を全然想像してないんだな、なんてことを思った。
なんでこんなことを言うかというと、聖書を読む時にも字面を追うことが精一杯で、というか字面も満足に追えていなくというのが正直なところだけど、その時の状景のことをイメージしてないことが多いなと思うからだ。
僕たちは聖書ということで読んでいるから、預言者の言葉も神の言葉と思って読んでいるし、イエスの言葉も神の言葉だと思って聞いている。でも実際その言葉を聞いていた人たちにとっては預言者の言葉もそれが本当に神の言葉かどうかなんてなかなか判断できなかっただろうし、イエスに対しても、どこの馬の骨とも分からない若者が不思議なことを語っているというような思いだったのだろうと思う。
よく分からない中で、或いはとても信じられない状況の中でイスラエルの人たちはエゼキエルの言葉を聞いたのだと思う。私たちもそんな状況をイメージすることで神の声が聞こえてくるんないかという気がしている。
ボロボロ
エルサレムの城壁も神殿も破壊され国が滅び、王を初め国民の多くがバビロンに補囚されている。ボロボロの状態だ。
当時は戦いはその国の神の戦いでもあるというような考えがあったそうだ。戦いに負けるということは自分達の神が相手の国の神に負けた、相手の国の神の方が強かったというような考えだったらしい。しかしそうすると国が滅ぼされてしまうとそこの国の神はどうなるんだろうか。神殿も破壊されてしまうと神の居場所もなくなってしまいそうだ。国がなくなって神殿も破壊されてしまうと神はどうなるんだろうか。そういう考え方だと、国が消滅してしまうと神も消滅してしまう、死んでしまうということになりそうだけどどうなんだろう。
死んだとまでは思わなくても、兎に角相手の国の神の方が強かったと思っているとしたら、自分達の国の神の言うことを真剣に聞こうという気にはなかなかならないんじゃないかという気がする。
エゼキエルはここで、イスラエルが再建されるという神の言葉を告げる。木の実や畑の作物も豊かになり飢饉になることもない、なんてことを言う。
それはありがたいうれしい言葉だ。それが信じられれば嬉しい言葉だ。だけどこれは自分達を守ってくれなかった守れなかった、と思っている自分達の神の言葉でもある。エルサレムの町も神殿も破壊されてしまっている、そんな状況でそんなこと信じられるんだろうか。
そんなこと言われてもにわかには信じられないよなと思う。下手な慰めとしか思えないんじゃないかなと思う。これを聞いた人たちがどう思ったのか、それはここには書かれていないけれど、そうだそうだと途端に元気になったなんて人はそれほどいなかったんじゃないかと思うのは僕が不信仰だからかな。何もかもなくしている時にはそんなに素直に単純に信じられないよなと思う。
でも、もうダメだダメだと思っていても、大丈夫だ大丈夫だと言われ続けると、そうかもしれないという気になってくる。聞いた直後にはそんなわけないと思ったことが、後からそうかもしれないと思うようになるなんてことも多い。
僕は基本的に悲観的に考える癖があって、自分のことも基本的にダメだと思ってる。ダメな牧師というか、牧師としてやるべき事なのに出来てないことがいっぱいあるような気がして、だったらやるように努力すれば良いのに、それもしないで自分を責めて嘆いてばかりいる。長期的に物事を考えて計画するなんてことも全然できなくて、中長期計画なんてことを考えて実行している牧師の話しを聞くとただただ落ち込んでしまう。なんてことをここで言って弁解しているというずるい人間でもある。
こんな自分のことをイエスが大事だと言ってくれている、愛してくれているなんてことはにわかには信じがたい。というか理屈では分かる、分かってるつもりではいるけれど、ああ良かった嬉しい、万々歳とはならない。そうはならないけれど、このダメダメな自分の中に、でもそんなお前が大切だと言うイエスの言葉が聞こえてくる。イエスの言葉を聞いてもダメな自分はそのままだ、けれどそのダメな自分の中に小さな光が射し込んでくるような気がしている。
エゼキエルの言葉を聞く人たちもそんな思いで彼の言葉を聞いたんじゃないかと思う。厳しい現実の中で、そんなこと本当にあるのかと思いつつ、そうなればうれしい、そうなって欲しい、そんな希望へと繋がっていったんじゃないかと思う。
希望をもらう
26節に「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの身体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」という言葉がある。
神が新しい心を与える、新しい霊を与えるという。そして神が石の心を取り除き、肉の心を与えるという。
私たちが自分で努力して自分の心を新しくするんじゃなくて、神が新しい心と新しい霊を与えるというのだ。
希望を持って生きるのと、希望なしで生きるのではまるで違った人生になるだろう。そして実はその希望も人間が自分の力で見つけ出して自分の力で持つものではなくて、神から与えられる、神からもらうものなのではないかという気がしている。
私たちも厳しい現実の中で生きていて、元気をなくさせるようなことばいっぱいだ。目に見えるものに希望が持てなくても、神が希望を与えてくれるなら、神から希望をもらえるなら、私たちは希望を持ち続けることができる。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二 4:18)という言葉がある。
厳しい現実の中にあるけれど、それだけを見るのではなく、見えない神を見つつ、神から希望をもらって生きていきたいと思う。