礼拝メッセージより
バビロン捕囚
南ユダ王国はヨヤキン王の時代にバビロニアとの戦いに敗れて、ヨヤキン王と指導者たちがバビロンへ捕囚された。これが第一次バビロン捕囚だ。
バビロニアはユダを属国としてゼデキヤを王として擁立した。ユダでは外国の支配を神の裁きとして甘んじて受け入れるべきという勢力と、バビロニアに反抗して独立すべきと言う勢力が対立していた。
結局ユダはエジプトに援助を求めてバビロニアに反乱を起こす。そのためもう一度バビロニアに攻められ、ゼデキヤ王は目をえぐられて、指導者たちと共にバビロンに補囚された。これが第二次バビロン捕囚と呼ばれるものだ。
サウルやダビデから続いてきた王国がここで終わることとなった。旧約聖書では、ダビデを賞賛することが書かれているところもあるが、民が王を求めて神がしぶしぶそれを認めたようなことが書かれている箇所もある。優れた王の時はいいけれど、優れた王の方が少なかったようだ。
王は基本的に子どもが引き継いできたようだが、結局は権力を持つとそれを離したくない、という欲求がどうしても出てくるのではないかという気がする。既得権益をなくしたくないという思いが強くなってくるのではないかと思う。
自分自身を養う
今日の箇所で言う「人の子」はエゼキエル、「牧者」はイスラエルやユダの王や支配者たちのことだそうだ。祭司なども含まれているのかもしれない。牧者なんて書いてあるから牧師のことかと思ってしまって、最初読んだ時はすっかり元気をなくしていた。
ここで神は牧者は家畜の世話をする人であり群れを養うべき人であると言う。しかし彼らは、3節にあるように、自分自身を養い、自分が乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとしない、と言われている。
4節はその群れを養わないということの具体的な説明のようだ。弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらず、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した、と言われている。
そのため群れは、飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない、と神は言う。
既得権益
まるで今の日本の状況を言っているような気がする。日本だけじゃなくて世界中なのかもしれないけれど。
今は貧乏人が金持ちを助けているというようなことがネットに書いてあった。少ない給料で働いて、しかも残業しても給料を出してもらえないような仕組みになっていて、その分金持ちの経営者はどんどん金持ちになっている、というようなことだったと思う。金持ちはどんどん金持ちになっていく、貧乏人はどんどん貧乏になっていく、今はそんなシステムになってしまっているようだ。そして権力者はそのシステムを一生懸命に守ろうとしているような気がする。
そう思いつつ、自分は貧乏人の側にいるという前提で権力者はけしからんと言っているけれど、本当にそうなんだろうかという気持ちもある。自分よりももっともっと大変な思いをしている人たちのことをどれほど思っているかと考えると心許ない。自分のことばかり、自分の教会のことばかりを考えているなあと思う。「弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらず、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず」なんて言われると確かにその通りですという気がして苦しくなる。
一緒に
ここで主なる神は、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする、彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く、わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と言う。
主なる神は、王や指導者たちにはもう牧者を任せるわけにはいかない、自分自身が牧者となる、と言われているようだ。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と言われている。
この主なる神の言葉はイエス・キリストの生き様そのままだと思う。イエス・キリストは弱く小さい人や差別されている人や苦しめられている人、自分には何の価値もないと思って嘆いている諦めている、そんな人達の所へ出かけていき、そんな人達と共に生きてきた。
神の意志と言うのは旧約時代から一貫しているということだろう。つまり自分だけのことではなく周りの者たちのことを考えること、特に弱く小さい者たちのことを配慮すること、それはイエス・キリストが来るずっと前から神が告げてきたことだ。
王や指導者たちはそんな牧者とならなかった、しかしこれからは私自身が牧者となる、私自身が弱く小さい者たちのところへ行く、だからあなたたちは私に付いてきなさい、と言われているような気がしている。
イエス・キリストも、私に従いなさい、と言っていた。イエス・キリストに従うと言うことは、弱く小さな者たち、差別され苦しめられている人達のところへ出て行く、そのイエスと一緒に出掛けていくということだ。そしてそういう人達のことを大切にしなさい、そんな人達と共に生きなさい、そう言われているのだろう。
イエスが牧者として導いてくれるということは、私たちが自分の力だけでどうにかしないといけないということではないということだ。また自分にはそんな力もないと言って嘆くこともないということだ。
私たちはただイエス・キリストに従っていけばいいのだ。イエスと一緒に出掛けていけばいいのだ。イエスと一緒に弱く小さい者たちを大切にしなさい、イエスと一緒に苦しみ嘆いている人たちと共に生きなさい、あなたたちのことは私が牧者なのだから私が守る、あなたたちは私が支える、だから心配しないでイエス・キリストと一緒に生きなさい、神は私たちにそう言われているのではないだろうか。
お前は自分の力だけで生きていかなくていい、私が牧者なのだから、私と一緒に、イエスと一緒に生きなさい、そう言われているような気がしてなんだか嬉しく、とてもホッとしている。