礼拝メッセージより
時代
南ユダ王国のヨヤキム王は、バビロニア帝国の支配に反抗を企てたが、これに怒ったバビロニア王ネブカドネツァルがエルサレムに正規軍を派遣することにする。しかしバビロニア軍がやってくる直前にヨヤキム王は死んでしまい、息子のヨヤキンが18歳で王となる。ヨヤキンはエルサレムが包囲されるとあっさりと降伏して、エルサレムは破壊を免れた。紀元前597年ヨヤキン王はバビロンに連行されエゼキエルもこの時バビロンへ補囚された。これが第一回バビロン捕囚だ。
バビロニアはヨヤキンに替わっておじのゼデキヤをユダ王国の王として立てるが、ユダの国内では親バビロニア派と親エジプト派の抗争が起き、結局親エジプト派が強くなってバビロニアに対して反乱を起こす。しかし返り討ちに遭い、ゼデキヤ王は捕らえられ、エルサレムは破壊されて、神殿も焼かれ、貧しい者たちを残して多くの者がバビロンへと補囚され、ユダ王国は滅んでしまった。これが第二回バビロンで、今日の箇所はその時期のことのようだ。
見張り人
最初の補囚でバビロンにいたエゼキエルは、預言者として神に召されてからのち、しばらくの間何も語らなかった時期があったようだ。
33章の前半で見張り人務めについて書かれている。神の言葉を預かった見張り人はそれを伝えないといけない、それを伝えなかったらその責任を求めるとか、悪人がそれを聞いて悪から離れるときはどうなるとか、離れないときの責任はどうなるとか、例によってなんだかくどい言い方で言われている。
見張り人というのは預言者のことみたいだけれど、その預言者の務めについては3章17-21節にも出ていて、33章と同じようなことが言われている。
しかしその時には、家に閉じこもっていろ、沈黙していろと言われている。しかし33:27ではこう言われている。
「しかし、わたしが語りかけるとき、あなたの口を開く。そこであなたは彼らに言わねばならない。主なる神はこう言われる。聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい。彼らは反逆の家だから。」
33章で再び見張り人の話しをする。沈黙を破る時がやってきた、そこで再び預言者としての使命を告げたというかもしれない。見張り人がその務めを果たせば責任は問われないが果たさなければ責任を問う、というようなことが語られている。神の言葉を民にしっかりと告げなさい、それがお前の務めだ、民がそれを聴こうが聴くまいが語りなさいということのようだ。
希望喪失
エゼキエルも連行された第1回のバビロン捕囚の後には、まだとりあえず国もあり神殿もあり、自分達の力でまた強い国を取り戻せるという思いを持っている人達も多くいたんだろう。そこでエジプトの力を借りてバビロニアに対抗しようという気運も高まってきた。そんな元気もあったわけだ。しかしバビロニアに反逆をしたけれども返り討ちに遭ってしまい、国もエルサレムも神殿も何もかもなくしてしまった。33:10に「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。」とあるように、微かに残っていた希望も、そこでを打ち砕かれてしまったようだ。
そしてそこで初めてイスラエルの民は自分達の背きと過ちに思い至るようになったようだ。かすかな希望も消え失せた、そんなどん底で、彼らは自分達の現実を見つめ直したらしい。というか希望をなくして前を見ることが出来なくなったから、過去を振りかえざるを得なかったのかもしれないと思う。そこで彼らは自分達の過ちを見つめ直したのだろう。しかしそこでの結論は、我々はやせ衰える、どうして生きることができようか、というものだった。
国も町も神殿も何もかもなくして、どうやって生きていけるのか、しかも自分達の過ちによってそんなことになってしまって、もう生きていけない、もう希望はない、それがイスラエルの民の結論だったようだ。
生きて欲しい
神はそんな民に対する言葉をエゼキエルに告げる。
「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬことを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(33:11)
「わたしは生きている」と言うのは旧約聖書によく出てくる誓いの言葉として言う時の決まり文句だろう。誓って言うとか、これは本当に真実だ真心だ嘘偽りのない言葉だ、というような意味だろう。
そうやって神が語気を強めて語った言葉が、お前たちが悪しき道から立ち帰って生きることを喜び、立ち帰れ、立ち帰れ、ということだった。
どん底にいる民に向かって神は、立ち帰れ、立ち帰れと。私の所へ帰ってこい、私と共に生きて欲しいと語る。
帰ってこい
これは苦しみ嘆きもだえている私たちに対する言葉でもあるように思う。神はそんな私たちにも帰ってこいと言われているのだろう。
では私たちの帰るべきところはどこなんだろう、どんなところなんだろう。
イエスの語った放蕩息子(ルカによる福音書15:11-32)の話しを思い出す。二人兄弟の弟は、親が生きているのに財産を分けてもらい、遠い国へ行き、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たし、豚の餌でも食べようかという程になって、息子としてではなく雇い人としてもらうつもりで家に帰ってくる。そうすると父はまだ遠くにいる息子を見つけて走ってきて首を抱いて、息子が生き返ったと言って宴会を開いて迎えたという話しだ。
二人兄弟の弟としてはなんともうれしい話しだけれど、私たちが帰る場所はそんなところなんだと思う。神はそんな家に帰ってこいと言っているのだろう。
自分の間違いや失敗や、自分の無力さを嘆き、或いはなにもかもなくし、もうどうにもならないとうずくまるような時、またあの時あんなことをしてしまったから、あの時これをしなかったから、そのために今こんなことになってしまったと後悔する時、そして結局は自分の所為だ、自分が駄目だったから、自分が間違ったから、こうなってしまっていると嘆き、今更どうしようもない、気力もない、どうして生きることができようか、もうなんの希望もない、お先真っ暗だ、そんなことを思っている私たちに、どん底に落ち込んで倒れている私たちに神は、帰ってこい、帰ってこい、私のもとへ帰ってこい、きっとそう言われている。今か今かと待っている。
私たちが帰るところはきっとそんな所なのだ。
私と一緒に生きて欲しい、私がお前を生かす、私がお前を支える、神はそう言っているに違いないと思う。