礼拝メッセージより
歯が浮く?
18章の最初にこんなことが書いてある。
「主の言葉がわたしに臨んだ。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酢いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。」(18:1-2)
この、先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」という言葉はエレミヤ書31:29にも出てくる。
「その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」と。」(エレミヤ書31:29)
歯が浮くというのはどういうことかはっきりしないけれど、多分酸っぱさを味わってしかめっ面をするというようなことだろう。要するに、先祖が悪いことをしたことで子孫が罰を受けるということだ。親の因果が子に報い、っていう奴だ。
イスラエルの人たちにはそういう考えがあったようだ。そう思うようになった原因の一つかもしれないけれど、十戒の中にこんな言葉がある。
「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記20:5-6)
この前半の、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」という言葉からすると、確かに親の因果が子や孫に報うってことを言われているようだ。しかし十戒では続きの、「わたしを戒める者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」とあって、罪は3、4代だけど、慈しみはその千倍の長い間に及ぶと言っていることになっている。でもバビロニアに痛い眼にあって、バビロン捕囚という憂き目に遭っているときには、先祖たちの罪の結果に違いないという気持ちになったとしても不思議ではない気もする。そのために「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」ということわざが流行していたんだろうと思う。
しかし3節では「わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。」と言われている。
「生きている」というのは思いを込めて言うときの決まり文句だと思う。主は力を込めて、そのことわざを二度と口にすることはないと言っているようだ。先祖の罪のゆえに自分達が罰を受けることはない、と言っている。神の命令に従わない者は死ぬ、従う者は生きる、子孫がそうなるのではなく、その本人がそうなると言っている。
正義
神の命令とは、ここでは正義と恵みの業と行うという言い方をしているけれど、具体的なことが6節以下に出てくる。
「すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。」(18:6-9)
それに続いて、その人の子が乱暴者でその正義と恵みの業を行わない時には必ず死ぬ、その責任は彼にあるという。しかしその子がまた正義と恵みの業を行うなら必ず生きるという。
そしてまとめのようなことが20節に「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。」と書かれている。
それに続くのが今日の箇所だ。21-23節では「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」と言われている。
悪人の死を喜ぶだろうかなんて言いつつ、その後では正しい人が不正を行うようになった時には、その人の責任で死ぬなんてことも言う。
ここで生きるとか死ぬとか言われているけれど、これは勿論肉体的な生きるとか死ぬとかということではなくて、祭司の用語だと注解書に書いてあった。つまり死ぬとは祭儀共同体から締め出されることで、生きるとは祭儀共同体に入れられることだそうだ。神殿の前で祭司は礼拝に集まる人々の入場資格を判断して、生と死を診断したそうだ。
ここでは共同体に入るれるか入れないかだけではなく、生きるとは神と共に生きること、死ぬとは神なしで生きるということでもあるように思う。
32節で神は「わたしはだれの死も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と言われている。
大丈夫
「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」と言って、先祖の罪によって自分達が苦しい思いをしていると思っていた民に対して神は、そんなことはない、罰は罪を犯した本人が負うという。罪を犯した者は共同体から締め出されることになり、神から離れてしまうことにもなるということだろう。
しかし神は、お前たちがそうなることは望んではいない、立ち帰って生きよと言われる。神の声を聞き、神の掟に従い、神と共に生きること、それを神自身が望んでいるということだ。
イスラエルの人たちが言うように、先祖の罪が子に報うとするならば、それはもう取り返しがつかない。今更先祖の行いを正すこともできない。しかし自分自身が自分の報いを受けるということならば、まだ望みがある。自分が悔い改めるならばいいわけだ。自分が軌道修正すればいいわけだ。
今日の話しは、お前たちはなんでもかんでも先祖の所為にするんじゃない、自分のことをよく考えろ、と戒めているのかと思っていた。
でもそれよりも、諦めるなと言われているような気がしている。苦しい境遇にあって、それは先祖代々の罪の結果なんだから仕方ない、もう自分達のことを神が省みてくれるなんてことはないだろうと諦めている人に向かって、諦める必要はない、まだまだ大丈夫だと言っているような気がしてきた。
大変な境遇に会うと私たちも諦めてしまいそうになる。こんな自分はもう駄目なのだ、神だってこんな自分をどうにかしようなんて考えないだろうと思う。
しかし神は、私は諦めない、私はお前のことを見ている、お前のことを心配している、私の方を見なさい、そして私と共に生きなさい、大丈夫、いつも私がついている、そう言われているのではないか。