礼拝メッセージより
預言者
昔から思ってることだけど、預言者ってどうやって神の言葉を預かるんだろうか。神の声が聞こえるんだろうか。耳から声が聞こえるのだろうか。それとも心の声として聞こえるのだろうか。
預言者本人は神の言葉が聞こえるとして、ではその預言者からその言葉を聞く民衆は、それが本当に神の言葉かどうかをどこで判断すればいいんだろう。
わからないことだらけだ。
自分の霊の赴くまま
エゼキエルは「イスラエルの預言者に向かって預言しなさい。」と言われる。イスラエルには預言者と言われる人が何人か、あるいは何人もいたということらしい。預言者とは文字通り言葉を預かる者、神の言葉を預かって民に伝える人のことだ。本当の預言者なら神が直接伝えればいい話だけれど、わざわざエゼキエルに預言せよと言われる。ということは、ここでイスラエルの預言者と言われる人達は神からは直接言葉が伝えられない、預言者と言いつつ実際には神の言葉を預かっていない者たちということになる。
その人達は自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者と言われている。当時イスラエルには預言をすることで報酬を得るという人たちもいたそうで、彼らは民に耳障りの良い言葉を語っていたようだ。13章の後半を見ると、呪術や占いをする人たちもその愚かな預言者に含まれているようだけれど、兎に角彼らはただ民が喜ぶような言葉、喜びそうな言葉を語っていたようだ。
神の言葉でなく、ただ民衆の喜ぶ話しをしている、なんてことを言われるとドキッとする。牧師たるお前はいつも何を語っているのだと問われているような気持ちになる。耳障りの良いことばかりを語っているのではないか、それは神の言葉、神からの言葉なのか、と問われているような気持ちになる。自分の霊の赴くままに、つまり自分の考えだけで語っているんじゃないのかと問われると心もとなくなる。
時々思うことがある。忠実に神の言葉を語ることが大事だと思うけれど、そうしたら教会に誰も来なくなったりしないんだろうかなんて。教会は大きくするためには耳障りの良いこと語ってた方がいいのかな、なんて思ったりもする。けれど、実際にはそんな耳障りのいいことをうまく語る技量もなくて、かといって神の言葉を忠実に伝えているという自信もないし、困ったものだ。
救い出す
それは兎に角、その愚かな預言者たちに対して、神はおまえたちに立ち向かう、お前たちはわたしの民の集いに加えられず、イスラエルの家の記録にも記されず、イスラエルの土地に入ることもできない、と語る。
また平和がないのに平和だと言って私の民を惑わしていて、それは壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだとも言う。そんなものは神が豪雨や雹や暴風によってすべて破壊するなんてことを言っている。
そして17節以下では愚かな預言者に対し神は、お前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなるようにし、お前たちから民を救い出すと言う。
今日の箇所は偽預言者に対する言葉であって民に対する言葉ではない。そして偽預言者から民を救い出す、という神の宣言の言葉でもある。
人間の心
ネットに今日の箇所でこんなことを書いてあった。
『エゼキエル13章は、偽預言者に対する神様の裁きが語られている。バビロンに強制移住させられた人々の中には、多くの預言者と呼ばれる人たちがいた。人々の不安を煽ってお金を巻き上げていた質の悪い連中もいたようだが、真面目に預言者活動をしている者たちもいた。
預言者として問われなければならないのは、本当に神様が預けた言葉を語っているかどうかである。真面目に活動していても人間の言葉を語っていたら、彼は偽預言者である。人は聞いたようにしか語ることはできない。神様の言葉を語るためには、神様の言葉を聞かなければならない。
神様は「イスラエルの預言者ども」に対して、「自分の心のままに預言する者どもに向かって、主の言葉を聞けと言え」と語られた。偽預言者たちは、「人間の心」を聞いただけで、神様の言葉を聞いていなかった。
バビロンでの移住生活は過酷だった。人々はエルサレムに帰ることを心の支えとした。エルサレムは神の都であるのだから、神様が必ず守ってくださると信じていた。しかし、それは「人間の心」の産物であり、神様の御心ではなかったのである。神様はバビロン捕囚によって、その苦しみの中で人々と出会い、人々を新しく造り変えようとされていた。
神様が偽預言者たちに「主の言葉を聞け」と命じた、そのメッセージは何なのか。それは、苦しみの中で神様を探し求めることである。バビロン捕囚という絶望的な環境には、神様はいないように見える。しかし神様はいてくださる。神様は苦しみに耐えられるように私たちを支え、苦しみを通してご自身のことを教えてくださる。苦しみから逃れることだけが神様の御心ではない。神様は苦しみの中で私たちに出会おうとしておられる。神様を求めて、神様の言葉を聞こう。』 (日本同盟基督教団 霞ヶ関キリスト教会)
苦しみの中に
昔何かの本で読んだ話だけど、確か盲人の人の話しだったけれど、その人が救いを求めていろんな宗教に行ってそうだ。そこで目が見えるようになりますかと聞いたそうだ。そうするとどこでも信じれば見えるようになります、というような答えが返ってきたそうだ。そこで最後にキリスト教会へ行ってそこでも見えるようになりますかと聞いた、そしたらそこでは見えるようにはなりませんと言われて、これこそが本物だと思ったという、そんな話しだった。
人間の心情から見えるようにしてあげたいし、きっと見えるようになると言ってあげたら相手も嬉しいだろうと思う。でもそれが本当に神の言葉なのかどうか、それが神の御心なのかどうか、それが問題だ。
苦しみから解放してくれることこそが神の業だと思う気持ちもあるけれど、実はそれこそが平和でないのに平和だということと繋がっているのかもしれない。神は苦しみの外にいて苦しみから救い出してくれるはず、苦しみに遭っているいるのは神から離れているから、神に見捨てられているからと思いがちだ。
けれども実は神は苦しみの中にいてくれているのだと思う。苦しみの多いこの人生を神は共に歩んでくれている、その神をしっかり見つめなさい、そこでこそ神の言葉が聞こえるのだ、そう言われているような気がしている。