礼拝メッセージより
余談
8節に「人の子よ、壁に穴をうがちなさい」という言葉がある。いきなりうがちなさいと言われても分からないなあと思う。まだ「ほがせ」の方が分かる。「うがちなさい」の前に「穴を」とあるからあけなさいという意味だと分かるけど。口語訳だと「あけよ」となっている。なんでわざわざ「うがつ」にしたんだろうか。訳した人が、こんな言葉だって知ってるんだぞと自慢したかったんじゃないか、と思うのはうがった見方なんだろうか。
と思って「うがった見方」というのを調べたら、本来は「物事の本質を捉えようと鋭い視点で見る」という意味だそうだ。うがった見方はひねくれた見方だとずっと思っていたし、そのように使ってる人が多いと思うけれど本来の意味は違うそうだ。そのうち意味も変わってくるのかもしれないけれど。
エルサレム
補囚されていたケバル川の河畔の地で預言者として立てられたエゼキエルは、神の言葉を民に伝えるようにと言う神の言葉を聞いていく。民が聞いても聞かなくても語りなさい、なんてこともと言われる。
そして今日の箇所では第六年の6月5日となっていて、そうするとエゼキエルが預言者としての召命を受けてから一年余り後ということになる。エゼキエルは神の手によって髪の毛の房をつかまれて、幻の内にエルサレムの神殿に連れて行かれ、そこでの有り様を見せられたという。髪の毛の房ってなんだろう?。エゼキエルは髪を束ねていたということなんだろうか。
まず初めに、エルサレムの神殿の北に面する内側の門の入り口の激怒を起こさせる像を見せられた。これはアシェラの像と思われるようだ。かつてマナセという王が神殿にこの像を建て、後にヨシア王はこれを取り除いたけれど、その後ヨヤキム王の時にまた建てられたそうだ。
次に庭の入り口に穴をうがちなさいと言われ穴を開けると、壁一面にあらゆる地は這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれていた。このうがつという言葉はもともとは探すという動詞が使われていたそうで、壁に開いている秘密の部屋に通じる入り口を探したということになるらしい。穴が開いてたのか開けたのかよく分からないけれど、兎に角その穴から秘密の部屋に入ってみるとエジプトの偶像である地を這うものと獣の像、そしてイスラエルの家のあらゆる偶像が壁一面に彫り込まれていて、その前に、イスラエルの長老70人がシャファンの子ヤアザンヤを中心にして立っていて、彼らはそれぞれ香炉を手にしていてかぐわしい煙が立ち上っていた。
シャファンとは、かつてヨシヤ王の時代に神殿から律法の書が見つかって、それを聞いたヨシヤ王は律法の書が禁じている偶像崇拝をしていることを知って神殿からアシェラ像を取り除くなどの宗教改革をしたということがあったけれど、その宗教改革のきっかけとなった律法の書が見つかった時に、ヨシヤ王の前で朗読した書記官がシャファンだったそうだ。しかしその書記官の息子であるヤアザンヤを中心にしてイスラエルの長老たちがみんなで禁じられている偶像崇拝を先導していたということだ。
また北に面した門の入り口では女たちがタンムズ神のために泣きながら座っていた。タンムズというのは季節の循環を表す植物神だそうだ。この植物神は土地がこげて植物が枯れる夏(6-7月)に殺されて黄泉の国に幽閉される、しかしその妻で妹のイネンナは彼を地下の世界から解放し、聖なる結婚によって春に生命が復活する、そんな神だそうだ。そのタンムズが死ぬ夏の時期に、女たちは喪に服して嘆き悲しんだそうだ。エゼキエルがこの幻を見せられたのが6月5日だから丁度嘆き悲しみ時期にあたるということかな。
そして最後に主の聖所の入り口では聖所を背にして祭司だと思われる25人ほどの人が太陽を拝んでいた。太陽礼拝は古くから中東でよく行われていたそうだ。マナセ王の時代にも行われていて、やはりヨシア王の時にやめたけれど、後に復活していたそうだ。
エルサレムの主の神殿なのにそこでは偶像崇拝が満ちている、それがエゼキエルが見せられた幻だった。案外それはエゼキエルがエルサレムにいるときに実際に見ていた風景だったのかもしれないと思う。その時には誰もが偶像崇拝に対する罪悪感も危機感もあまりなかったんじゃないかと思う。けれどバビロニアに支配され、バビロンに補囚されるという中で、どうしてそうなってしまったのかということに思いを巡らす中で辿り着いた答え、それは神から示された答えということでもあるんだろうけれど、それが数々の偶像崇拝であったということだったのだろうと思う。
ねたむ神
5節で、神殿の北の祭壇の入り口に「激怒を招く像」があったと書かれている。前の訳では「ねたみの像」と訳している。前の訳では聖書の他の箇所でも、主はねたむ神だと言われている。新共同訳では熱情の神となっているが。
出エジプト記20章に十戒があるが、その中に「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」(出エジプト記20:3-6、口語訳)
神がねたむなんておかしな話しだなとずっと思っていた。妬むというとちょっと格好良いけれど、要するに嫉妬する、やきもちをやくってことだよね。
神なんだから人がどうしようと平然としていればないかと思う。人が自分の言うことを聞かなかったり間違ったことをしたのならば、たんたんを裁きを行えば良いんじゃないかと思う。というか冷静に冷酷に罰を下すのが神なんじゃないかという気持ちがある。
でも主なる神はどうやらそうではないらしい。人が他の神を礼拝すると、それに対して怒ったりねたんだりするらしい。
お前等はどうして他の神を拝むんだ、12節でイスラエルの長老たちが言うように、どうして私が見捨てたなんて言うんだ、そんなことしてたらお前等のことはもう知らないぞ、話しも聞いてやらないぞ、そんな風に言っているような気がしている。まるで浮気した相手と痴話げんかでもしているかのように感じる。
熱い思い
怒ったりねたんだりするのは、結局はそれは愛情の裏返しのように思う。俺がこんなに大事に思っているのに、こんなに心配してるのに、どうして他の神のところへ行くんだ、どうして捨てられたなんて思うんだ、こんなに愛してるのが、こんなに心配しているのがどうして分からないのか、なんだかそんな風に言っているような気がしてきている。
こんなに愛している、こんなに大事に思っている、どうかそのことを分かって欲しい、その気持ちを受け止めて欲しい、そして私と共に生きて欲しい、神のそんな切実な願いがこの話の底に流れているんだと思う。
偶像崇拝は悪いことだから、罪なことだからしてはいけないというように思っていた。でも本当は偶像崇拝をするなというのは、神さまが自分の熱い思いを知って欲しい、お前のことを大事に思っているからこそ、自分の声を聞いて欲しい、そんな熱い思いから言ってるような気がしている。
そしてイエスはまさにその神の熱い思いを私たちにストレートに伝えてくれているように思う。