礼拝メッセージより
エゼキエル
今日からエゼキエル書を見ます。余談ですが、サンフレッチェにエゼキエウという選手がいる。EZEQUIELと書くみたいで、英語読みだとエゼキエルとなるような気がするけれど、ポルトガル語だとエゼキエウになるのかな。余談でした。
北イスラエル王国はすでに滅ぼされ、南のユダ王国ももうすぐ滅ぼされるという存亡の危機にあった時代の出来事だ。
紀元前597年に第一次バビロン捕囚があり、南ユダ王国のヨヤキン王がバビロンに連行された。その時エゼキエルも王と共にバビロンへ補囚されていた。エゼキエルはケバル川の河畔に住んでいたと書かれている。ケバル川とはユーフラテスの支流だそうだ。そこでエゼキエルに神が顕れ、預言者として神の言葉を民に告げるようにという召命を受けたという話しだ。。
1章で第三十年の四月五日のことで、ヨヤキン王が補囚となって5年目のことだと書かれている。第30年というのはエゼキエルが30才の時のことらしい。バビロンへ連れてこられて5年目ということになる。
エゼキエルは祭司ブジの子とあって、祭司は代々引き継がれているので自分も祭司となるべく育ってきたということだろう。祭司は30歳からその務めを始めるそうで、エゼキエルは丁度その歳になった時に神の召命を受けたということのようだ。
祭司の務めを始める歳になったけれども、祭司とはエルサレムの神殿が仕事場であって、この時エゼキエルは祭司としての務めを果たすことも出来ずにいたのだと思う。そもそも神はエルサレムの神殿の中の契約の箱の上に座していると考えられていたようで、バビロンへ連れて来られているということは、自分たちの神からも遠く離れているというような思いでいたのではないかと思う。また戦いに負けるということは相手の国の神の方が強いからだというような考えもあったようで、イスラエルの人たちは自分達の神に失望していたのかもしれないし、エゼキエルもそうだったかもしれないとも思う。
召命
そんな時にエゼキエルは補囚の地で神の召命を受ける。1章には大いなる雲が光を放ち、その中には4つの生き物がいて、それぞれ4つの顔と翼があった、なんてことが書かれている。どういう姿形なのかなかなかイメージしづらいけれど、要するに神の栄光の玉座に乗って神がエゼキエルの前に現れたということのようだ。当時は神を見た者は死ぬと考えられていたようで、エゼキエルもそれを見てひれ伏したと書かれている。
そしてその神の語った言葉が2章からのところになる。
「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」というのが最初の言葉だ。エゼキエルに対して神は、人の子よと言っている。エゼキエルよってどうして言わなかったのだろう。神は自分の足で立てと言うけれど、霊がわたしの中に入って立たせたと書かれている。
そして神はエゼキエルに自分の言葉をイスラエルの人々に告げるようにという話しをする。しかしイスラエルの人々は反逆の民であり、恥知らずで強情な人々と言われている。ひどい言われようだなと思うけれど、神から見たらイスラエルの人たちは逆らってばかりの民であったということのようだ。
なのにそんな民に神は関わり続ける。エゼキエルに対して、その民に向かって自分の言葉を語りなさいと命じる。彼らが聞き入れようと、反逆の家だから拒もうとも恐れず語りなさい、語らなければならないと言っている。「あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない」なんて言われているけれど。
哀歌と呻きと嘆き
そして神から巻物が手渡され、それを開くと表にも裏にも文字が記されていて、それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉が書いてあったというのだ。
神がイスラエルの人たちに対する思いは、哀しみと呻きと嘆きであるということかなと思う。彼らにずっと声を掛けてきているのに聞き従ってくれなかった、大切に大事に思っているのに知らんぷりをされてきた、神はそんな哀しみと呻きと嘆きの気持ちを持っているということなのだろうか。
そして神がエゼキエルに託す言葉は、民にとっては厳しい言葉となると告げているようだ。あざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされるような、反逆の民から反逆されるような、そんな言葉を伝えなさいと言われているということなのだろう。そんな言葉を民に語るというのは大変なことだと思う。
反逆の民
しかし反逆の民、反逆の家と言いつつ、神はそのイスラエルの民を諦めない、見捨てないということだ。その民に対する言葉は厳しい言葉にならざるを得ないのかもしれないけれど、厳しい言葉の背後には神の熱い思い、民を大事に思うその思いがあるというだろう。だからそのことをまずエゼキエルに伝えたのではないかと思う。
厳しい将来が待っていることを告げるけれども、しかしそれは決して神が見捨てたのではないということ、国は滅びるかもしれないけれども、決して神は見捨てない、全ては神の手の中にあることなのだ、神は今でも熱い思いを持って見つめている、そのことをエゼキエルに伝えたのだと思う。
「口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」なんてことを言われていて、3章ではその巻物を食べると蜜のように甘かったなんてことが書かれている。巻物には神の哀歌であり呻きと嘆きが書いてあったけれども、それを食べると甘かったというのだ。神の言葉というのは一見苦く厳しい言葉のようであるけれど、実はそれを食べて、自分の身体に入ると自分の為になる、自分を支え元気づける、そんな言葉であるということなのかなと思う。
哀しみ、呻き、嘆く
そんなことを考えている時に、ふと思い至ったことがあった。
子供や孫が大変な病気になると、自分が代わってやりたい、と言うような話しを聞くことがある。
私たちも自分の子どもが苦しんだり悩んだり痛い思いをしている時には、自分も同じように苦しい思いになる。
実は神は私たちに対して同じような思いを持っているのではないかと思った。
私たちが一人で彷徨い苦しんでいる様を見て、神さま自身も悲しく呻き嘆いているのではないかと思った。
お前が苦しい時は私も苦しいのだ、お前が悲しいときは私も悲しいのだ、私はお前といっしょに悲しみたい、お前といっしょに呻きたい、お前といっしょに嘆きたい、そんな私の思いを知って欲しい、いっしょに哀しみ呻き嘆いていることを知って欲しい、神は私たちに対してそう言われているような気がしている。
たとえ反逆の民だとしても、自業自得で苦しんでいたとしても、そんなお前を見捨てはしない、私はいつも一緒にいる、いつもお前といっしょに泣きいっしょに笑っている、お前はひとりじゃない、決してひとりぽっちにはしない、神は私たち一人一人にそう言われているんじゃないだろうか。
何よりもイエスはそう言ってくれているに違いないと思う。