礼拝メッセージより
再臨
なんだかよく分からないなあと言いつつ、ヤコブの手紙も今週で終わりになる。
今日の聖書の中で、「主が来られる時が迫っている」なんてことが書かれている。イエスの再臨の時、終末の時が近いということのようだ。
イエスの再臨についてパウロはテサロニケの信徒への手紙一の手紙の中でこんなことを書いている。
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一4:13-18)
パウロは終末の出来事をこのように具体的に語っている。合図の号令とか大天使の声とか神のラッパとか、そんなのが世界中に聞こえたりするんだろうかなんてことを思う。またキリストに結ばれて死んだ人たちが復活し、生き残っている者もいっしょに空中で主と出会うために雲に包まれて引き上げられるなんて、そんなことがあるんだろうかと思う。
そもそもパウロはどうして終末のことを知っているんだろうか、誰から教えられたんだろうか。そしてここで言われてるようなことが本当に起こるのだろうか。私たちが重力に逆らって空中に挙げられて空中で主に会うなんて、天変地異どころの騒ぎではなくて、宇宙の崩壊みたいな話しだと思う。世の終わりだから起こっても不思議ではないと言われたらそれまでだけど、本当にそんなことが起こるとは信じられないというのが正直な気持ちだ。
だいたい主御自身が天から降って来られますと言われてるけれど、主イエス・キリストは、世の終わりまでいつもあなたたちと共にいる、と言われていて、今もそしていつも共にいてくれているはずじゃなかったのか、なんてことも思う。
勿論パウロも世の終わりを経験して書いている訳でもないし、誰も経験していないことだ。聖書にはそれがいつなのかは誰にも分からない、ということも書かれているけれど、どういう風になるのかなんてことは誰にも分からないんじゃないかと思う。
終末
やがて終わりの時が来る、という考えは旧約時代からあったそうだ。神を信じて神に従っている者が苦しめられる、なのに神を信じていない者や神に逆らっている者が栄えているのはどうしてなのか。或いはまことの神の教えを守っている自分達の国が滅ぼされ、偶像を崇拝している国に痛めつけられているのはどうしてなのか、こんな苦難はいつまで続くのか、そんな苦しい思いを持つ民に希望をもたらしたのが終末論だったようだ。やがて終末がやってくる、世の終わりがやってくる、その時には神が世を裁きにやってくる、悪をやっつけ、正しい自分達を救いにやってくる、そんな希望を持つことで、苦しい現実を耐えていたようだ。
そしてそんな思いがキリスト教会にもあったようだ。キリスト教会では復活のイエス・キリストが再びやってくる、イエス・キリストを信じる者を救い、信じない者を裁くために、その時には強い力を持ってやってくる、という考えがあったようだ。
最初に見たテサロニケの信徒への手紙一は、パウロの初めの頃の手紙で、そこに書かれているように自分が生きている間にイエスは再びやってくる、もうすぐだ、と語っている。しかし、パウロが語るようなイエスの再臨は起こらず、後の手紙の方では、再臨はもうすぐだというような言い方はしなくなっていってるそうだ。
苦しみ
ヤコブは主が来られるときまで忍耐しなさい、と言っている。いつまで忍耐しないといけないのかわからない中で忍耐し続けるのは大変なことだ。それがいつまでと分かっていれば、それまで辛抱しようという気にもなる。たとえその長さが分からなくても、やがていつか終わりが来る、必ず終わりが来ると思えるのと、終わりが来るのかどうかも分からないのとでは、苦しみに対する度合いは随分違ってくるだろうなと思える。
いつかは分からないけれど、この苦しみも必ず終わりがくる、やがて主が来る、それは苦しみの中にある人たちにとっては最後の希望だったのかもしれないと思う。しかもそれがもうすぐだと思えれば、それまで耐え抜こうという力も出てくるように思う。
ヤコブはここでヨブのことを書いているけれど、どうなんだろう。ヨブのように長い間理不尽な苦しみが続くと言われると逆に気持ちが折れるんじゃないかと心配になるけれど。
誓い
その後ヤコブはちょっと唐突に誓いを立てるなと言っているけれど、どうしてそんな話しが出てくるのかよく分からない。イエスも誓いを立ててはならないと言ったことが福音書に出てくるけれど、どうしてなんだろうか、よく分からない。
祈り
続けて病気の人は教会の長老に祈ってもらえと言う。当時は病気は罪の結果であると考えられていたようで、病気であるということは罪があるということで、罪を赦して貰わないと病気も治らないということから、主に赦してもらうために祈ってもらえと言っているようだ。
そして正しい人の祈りは大きな力があり効果をもたらすなんてことを、エリヤが祈ったことで雨を降らせなかったり降らせたりしたという旧約聖書に書かれている話を引き合いに出して語っている。
そんなに都合良く祈りが聞かれたらいいなと思うし、祈っても祈っても聞かれないと思うことばかりなのは、自分が正しくないためなのか、それとも自分勝手なことばかり願っているからなのだろうか。
真理
そして、真理から迷い出た罪人を連れ戻すことは、罪人の魂を救い出すことで多くの罪を覆うことになると知るべきです、という言葉で手紙が終わる。
手紙としては変な終わり方だなと思う。
希望
この一週間、再臨とか終末のことばかり考えていた。テサロニケの信徒への手紙で書かれているようなことはないよなと思いつつネットを調べたりしていたけれど、聖書に書いてあることをそのまま説明するような話しがほとんどだった。本当にそう信じてるんだろうか、素直に信じられない自分は不信仰なんだろうかなんて思っていた。
空中で主に会うなんてことは信じられないけれど、でも最後にはこの地上から引き上げてもらえるというのはなんだかホッとするうれしいことだなという気がしてきた。
というのも、空中に引き上げられるということは、自分以外のいろんなものを地上に残していくということだなと思った。自分の車も服も本もパソコンも、何もかも地上に残していくということになる。つまりそれは、それまで生きていた世界から解き放たれるということ、そしていろんな持ち物だけじゃなく、様々なしがらみや足枷を地上に残して、引き上げてもらえる、いろんなしがらみや足枷から解き放たれるということなんじゃないかと思った。またそれまでの失敗や間違いやだらしなさ、そんなものも含めて一切合切を地上に置いてくるということなんじゃないかという気がしてきた。
死を迎えた時がその時なのかもしれないけれど、神が、今私たちが生きているこの世界から、兎に角最後には引き上げてくれるというか、引きずり出してくれるということではないかという気がしてきた。
人を導くことも出来なかった、教会を大きくすることもできなかった、維持することもできなかった、立派な牧師にもなれず、ちゃんとした親にもなれなかった、なんてことをよく思う。でも最後の最後にはそんな思いからも引きずり出してくれる、そんな思いも地上に残して引き上げてくれる、空中で主に会うというのはそういうことを伝えているような気がしてきた。空中で主に会うなんて、そんな馬鹿なと思うだけだったけれど、最後の時にはイエスが生身の自分を迎えてくれると思うとなんだか元気が出てくる気がする。最後にそんな時がやってくるというのは究極の希望だなという気がしてきている。
だからこそ、やがてそんな時がくるから、主イエスが生身の私たちを迎えてくれる時が来るから、今この時を忍耐しよう、今のこの苦しい時を耐え忍んで生きていこうと言っているのかなと思う。
そんな究極の希望を持って、今この時をしっかりと生きていきたいと思う。