礼拝メッセージより
自慢
三つ子の魂百までなんていいけれど、小さい頃に植え付けられたものって死ぬまで引き摺るんだろうかと思う。僕は近所に年の近いいとこが何人もいて、いつもそのいとこたちと比較されていたような記憶がある。なんとか君はよく話すのにお前は引っ込み思案で何も話さない、とよく言われていた。そうかと思うと、学校の成績だけは誉められていて、成績のいいことだけが自分の価値のように思っていた。成績が良いっていっても、田舎の片隅だけでの話しで、高校に入ったらそんなのばっかりで落ちこぼれて、結局登校拒否児になった。
そんなこともあってじゃないかと思うけれど、なんにつけ自慢したいという気持ちがある。まわりからすごいねと言われたいという気持ちがいっぱいある。自慢出来るものがあることで安心するというか、それがないと自分がつまらない価値のない人間なんじゃないかというような思いがある。いつもいつも誰かと競争していて、勝ったと思う時は嬉しくなって、負けたと思う時は落ち込むこともよくあるなあとも思う。牧師になってからも、立派な教会や立派な牧師の話しを聞くと、すぐ落ち込んでしまう。
14節では「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。」なんて言葉がある。内心ねたみ深く利己的であるからこそ、逆に自慢したくなるんじゃないかと思う。そして人間て誰もがねたみ深く利己的なんじゃないかと思う。だから誰もが自慢したり嘘をついたりしてはいけないと言われているんじゃなかろうか。
15節で「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。」とある。どうしてここに知恵という言葉が出てくるのかよく分からない。知恵と言うより思いというか考えと言った方が良いんじゃないのかな。
自慢したいという気持ち、うそをつきたいという思い、ついつい嘘をついてしまうという思い、そういうのは地上のもの、この世のもの、つまり人間が生まれつきに持っているものということなんだろうと思う。そしてそれは悪魔から出たものというように、邪悪な思い、邪悪な知恵ということなんだろうと思う。
17節ではそれに対して上から出た知恵について語っている。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」
上から出た知恵とは、神から与えられる知恵、知恵というか神から与えられる思いという感じかな。それは具体的には、純真、温和、優しく、従順、憐れみと良い実に満ち、偏見がなく偽善的でないということのようだ。
ガラテヤの信徒への手紙5章に霊の結ぶ実というのがあってそれと似ているなあと思う。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22-23)
ヤコブの手紙の上からの知恵と、ガラテヤの信徒への手紙の霊の結ぶ実というのは同じことを言っているような気がする。そういうものは結局神からもらうもの、神からもらうことで初めて持つことができるものでもあると言っているような気がしている。
舌を制する
ヤコブがどうしてこんな話しをしているのかというのが3章の始めの部分に書かれているように思う。
3章の前半では、舌を制御するという話しが出てくる。人は舌を制御するのが難しく、言葉で過ちを犯すなんてことが書かれている。言葉によって人を傷つけ、仲違いさせることもある。
8-10節では「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」とある。
あってはなりませんと言われているけれど、同じく力賛美と呪いが出てくるというのが私たちの実体なんだろうと思う。
上からの知恵
だからこそ上からの知恵、神からの思い、神の愛を受けないといけない、ヤコブはそう言っているんだろうと思う。
自慢したい、人よりも優位に立ちたい、ちやほやされたい、そんな思いだけで生きているところには争いや分裂が起きてしまう。そんな利己的な生き方では幸せにはなれない、そこには喜びがないということなんだろう。
逆に誰かのために生きること、誰かを大切に思い誰かを愛すること、実はそこにこそ幸せがあり喜びがあるということなんだろう。
それはまさにイエス・キリストの生き方だった。差別され苦しめられ、自分で自分をダメだと責めている、そんな人たちを徹底的に愛し、そんな人たちにに徹底的に寄り添って生きてきた。そんな人たちとずっといっしょに生きてきた、そんなイエスに従って、イエスに倣って生きていこう、ヤコブはそう言っているのだろう。
いっしょに生きる
自分が立派になること、自分がお金持ちになることなど、いろいろと自分が自慢出来るものを持ったり自慢出来る人間になりたいと気持ちが強くて、逆にそうできない自分を嘆いたりすることも多いけれど、それって結局自分のことばかり見ている、自分のことばかり考えているんだろうなと思う。
誰かといっしょに生きているということをもっともっと大事に、というか誰かのことにもっと目を向けていかないといけないなあと思う。その誰かを愛し、大事に思う、なんて偉そうなことだけじゃなくて、いっしょに笑い、いっしょに泣く、いっしょに悩み、いっしょに苦しむ、そんな誰かといっしょに生きていることを大事にしていかなきゃいけないなと思った。
イエス・キリストは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言った。だからずっと、愛さないといけないと思ってきたけれど、愛し合うということは愛されるということでもあるということに今更気付いたような気がしている。自分といっしょに泣き、いっしょに笑い、いっしょに悩み、いっしょに苦しんでくれる友がいること、それこそが幸せなことであり、そんな風にいっしょに生きることこそが喜び何だろうと思う。