礼拝メッセージより
分け隔て
1章では、「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。」(1:24)というよく分からない譬え話しがあった。
でも今日の、金持ちの人と貧しい人に対する対応の話しは具体的でとても分かりやすい。あなたがたの集まりに、つまり教会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入ってきて、また汚らしい服装の貧しい人も入って来たとして、立派な身なりの人には、どうぞこちらにお掛け下さいと丁重に挨拶して、貧しい人には、そこに立っているか、私の足下に座るかしていなさい、と言ったらあなたは人を差別している、誤ったことをしているなんてことをいう。だいぶ誇張して言っていることで、まさか教会の中でここまで露骨な差別はしないだろうという気がするけれど、奴隷の身分の人がいたような時代だからとすると実際にこんなことがあったんだろうか。あるいはそんな時代だと、金持ちと貧しい人に対する対応が違うことのほうが当たり前だったのかもしれない。差別があることに疑問を挟む余地もなかったのかもしれないと思う。
ちょっと話しは違うけれど、少し前に天皇がオリンピックを開催することに懸念を示したというような話しがあった。そのことを取り上げているyoutubeがあって、本来天皇が政治に口出しをしてはいけないが、天皇でさえ懸念しているオリンピックを開催しようとしているというような話しをしていた。それを見ている人のコメントが出てくるのだが、その中に天皇陛下がそう言ってるんだから中止した方がいいという意見が多かったけれど、中に、天皇と呼び捨てにするな天皇陛下と言いなさい、というのがあった。
陛下というのは、相手は階段の上にいるけれども、自分は階段の下にいる身分の低い者ですというような意味だと思う。マスコミでは天皇や皇室の批判はタブーになっているみたいで、相変わらず神聖にして犯すべからず存在として祭りあげているみたいだ。日本には人種差別はないようなことを言う人も天皇は別みたいだけど、変に思わないのかなあ。
でもそれが当たり前と思っている人にとっては、この手紙に書かれているような対応こそが当たり前のことであるのかもしれない。そうすると人を分け隔てしてはなりません、というのは当たり前をぶち壊す発言なのかもしれないという気がしている。
差別
現代では人はみな平等だ、差別はいけないと教えられているから、そんなことは当たり前、当然していると思っているのではないか。
でもそう思っている人間が差別をしていないかというとそうとも限らない。教会には差別がないとか、クリスチャンは差別しないと簡単には言えないようだ。
例えば主の晩餐がそうだ。今教会では主の晩餐の杯を一人一人別々の杯にしている。長年そうしているとなんだかそれが当たり前になっている。でもそれは聖書に忠実なやり方ではない。
マルコによる福音書14章22節以下のところでは、
『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』
「彼らは皆その杯から飲んだ」とあるように、みんな同じ杯から飲んでいる。何でも聖書と同じにしなければいけないというわけでもないし、あるいは衛生的には分けた方が良いのだろう。けれども聞くところによると、昔は教会でも一つの杯から飲んでいたというのだ。だけど部落の人が教会に来るようになって、その人たちと同じ杯から飲みたくないということで別々の杯になったという話しだった。
その話しがどれほど確かなことかはよくわからないけれど、大事なことは、教会だからといって差別がないとか、教会に来ている人間は差別しないとかいうことではないということを認めることだと思う。つまり私たち自身の中にも差別心がないかということそうではないということだ。私は差別してないと思うかもしれないが、本当に差別する心がないかどうかと問いかけたときに差別心のかけらもないと言う人はきっといないだろうと思う。
顔見知りの人には親しく挨拶するけれども、初めて見る人には知らん顔するようなことになりがちだ。あるいは特別な才能を持っている人とか、地位や名誉がある人とか有名人は大事にするけれども、普通の人には冷たく接するなんてことがないだろうか。
多分誰だってあるだろうと思う。何にもない、誰に対しても全く同じように接しているなんて人はいないだろう。
もらいたい
なぜ金持ちや身なりのいい人ばかりを大事にする気持ちがあるのだろうか。確かにいっぱいお金を持っている人が教会員になってくれたら、いっぱい献金してくれるんじゃないかと思う。
今まさにそんな気分だ。屋上の防水シートの交換に、外壁の目地の入れ替えと外壁の塗装なんて話しを聞くと、建築献金は百万円もないのに、一体何百万円必要なのかと考えて頭がクラクラしそうになってる。こんな時に金持ちの人が教会に来たら媚びてしまいそうだなと思う。
同じようにいろんな才能を持っている人が教会員になってくれて、あれもこれもやってくれて、教会も大きくしてくれたらいいなあ、なんてことも思う。
あるいは地位や権力を持った人と仲良くなっていたら、何かあったときには助けてくれるかもしれないとも思う。
だからお金持ちや才能を持っている人や地位や権力を持っている人は大事にしとかないと、丁重に扱わないといけないと思う気持ちはよく分かる。
でもよく考えると、それは結局は自分が何かしてもらいということばかり考えているなあと思う。なにかをしてもらいたい、という気持ちがあるから、お金持ちや才能をいっぱい持っている人ばかりを大事にするということがあるのではないかと思う。もちろんいろいろしてくれたらうれしい。でもけれども本当は受けるよりも与える方が幸いなのだろう。与えるよりも受ける方を期待していると幸いではないのだろうと思う。そして与えることに意味があるとすれば、その時には相手が何を持っているかどうかは関係ない、何も持ってなくてもいい。
与えていくとか仕えていくなんて面倒なことだし、それこそ得にならないことだ。けれどもそれこそが愛することであって、本当はそれこそが一番の幸いなことなのだろうと思う。
イエス・キリストは私たちを愛してくれている。イエス・キリストは何の得があって私たちを愛してくれているのだろう。きっと何もない。何もないのに愛されている。何の価値もないのに愛されている。
何でこんな私たちを愛するのだろうかと思う。それはイエス・キリストにとって何もない私たちを愛することが幸いな、幸せなことだから、だから愛しているのではないかと思う。
貧しい人々
「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」(2:5)と言われているように、神は貧しい人達をあえて選んだらしい。そしてイエス・キリストも何よりも貧しい人のことを大事にしているようだ。
ナザレの会堂での最初の説教の時には、
「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
(ルカによる福音書4:17-19)と書かれている。
また洗礼者ヨハネがイエスが神の選ばれた方かどうか尋ねに来た時に、使いの二人に対して、
「それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(ルカによる福音書7:20)とある。
そして平野の説教では、
「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである。」と語った。
貧しい人を顧み大事にする、それがイエスの生き方でもあったようだ。私たちの教会が貧しいのも当たり前なのかもしれないという気がしてきている。
貧しい私たちを愛してくれているイエスに倣って、私たちも貧しい人達、ないがしろにされている人たち、苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たちを愛し大事にしていきたいと思う。