礼拝メッセージより
永遠の命
神が永遠の命をわたしたちに与えた?、それってどういうことなんだろうか。
永遠の命ってなんじゃらほい。死なない命ってことか。なわけないよな。死なないでずっと生きてる人、何百年も生きている人なんていない、と思う。いずれは死ぬというのは例外なく万人に共通する運命というか宿命だと思う。
ここでいう永遠の命というのは、それはいつまでも死なない命ということじゃないよな。
なんだかよく分からないのでいろいろ調べると、ある人がこんな説明をしていた。『世俗的な意味での生命を意味せず、命の源である神の御子キリストを信じる者に恵として与えられるキリストにある霊的な命、永遠に続き、滅びることのない命』
聖書教育には『この「永遠の命」とは、肉体は滅びるが、魂は永遠であるという、霊魂不滅を意味しているのではなく、十字架上で確かに死に、その絶望の死から神によって復活させられた、み子イエス・キリストにある命であり、このお方と愛の関係のなかに生かされている、わたしたちの内にある命そのものです。』と書いてあった。
やっぱりよく分からない。
永遠の命という言葉は新約聖書に43回も載っているそうだ。あまり気にしたことはなかった。分かったような振りをして適当に聞き流していた。
少し例を挙げると、
ヨハネによる福音書3:15「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
ヨハネによる福音書3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネによる福音書3:36「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
ヨハネによる福音書4:14「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
ヨハネによる福音書5:24「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
ヨハネによる福音書6:40「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
ヨハネによる福音書17:3「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
ガラテヤの信徒への手紙6:8「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」
テトスへの手紙3:7「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」
ヨハネの手紙一5:11「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」
ヨハネの手紙一5:20「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」
既に
やっぱりよく分からない。しかしこの手紙ではその永遠の命が与えられた、もう与えられていると伝えているようだ。今日の箇所の11節では「その証しとは神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」とあり、また13節では「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」と書かれている。
ということは、永遠の命というものが既に与えられているということだ。もうあなたたちに与えられている、もう既に持っている、けれどもそのことがなかなか分からないものでもあるということかなと思う。
生きる力
信じる者には既に与えられているらしい、それはいいけれど永遠の命ってやっぱりよく分からない。と思ってネットを見ていると、岩手県の山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)さんというカトリックのお医者さんだそうだけれど、この人の訳したケセン語訳(気仙語訳?)のことが出ていた。それによると「永遠の命」を山浦さんは「いつまでも生き生きと生きる力」と訳しているそうだ。こっちの方が少しは分かりやすい気がする。
ネットで料理研究家の土井善晴さんのことが出ていた。
料理番組でこう言ったそうだ。『「難しい料理を一生懸命作るよりも簡単なものでいいからご機嫌な顔して本当に楽しそうに作る。それでいいんですよ。できないことムリしてやる必要はない」』それを聞いて泣きそうになった、と書いている人がいた。
また『料理中、失敗しそうになると心の土井善晴を呼び出して「これぐらいがちょうどええんですわ」等の助言を仰ぐようにしてる』と書いている人もいた。
たまにテレビで見ることがあるけれど、穏やかな口調で確かにこんな風なことを言っていたなと思う。
生きるというのは本当に大変なことだ。思わぬ大変な目に遭うこともあるし、願ったようにいかないこともいっぱいだ。間違ったり失敗したり挫折したりすることもしばしばだ。そんな人生を後悔し嘆き、辛い思いになることもある。そんな中で生きていくのは大変なことだ。
でも、私たちにはイエス・キリストがいてくれている。私たちの心の中にはイエス・キリストがいてくれている。私たちがどれだけ失敗しようが、挫折しようが、イエス・キリストはいつも一緒にいてくれている。
料理をすることがしんどかったり、失敗しそうになって挫けそうになった時に、土井さんの言葉を思い出して力付けられる人がいる。
生きることがしんどかったり、挫けたり、心折れたりする時、そんな時に私たちを力付けてくれるもの、それはイエス・キリストだ。お前が大切だ、お前を愛している、何があっても私はお前の味方だ、そんなイエス・キリストの言葉が私たちを力づけてくれる。
山浦さんは永遠の命を「いつまでも生き生きと生きる力」と訳したけれど、私たちにとって生きる力の源はイエス・キリストだ。永遠の命とはイエス・キリストそのものという気がしている。
この手紙は、すでに永遠の命が得ていることを悟らせるために書かれているようだ。あなたがたの内にはもうイエス・キリストがいてくれている、そのことを知って欲しい、悟ってほしい、そんな思いでこの手紙は書かれているようだ。
いつまでも生き生きと生きる力を与えられているということは、私たちは自分の力だけで生きているのではない、自分の力だけで生きようとしなくていい、神の力を受けて、イエス・キリストの力を受けて生きていけばいいということでもあるような気がしている。
そんな私たちを生かす力を私たちはすでに与えられている。その力をいっぱい受けて、生かされつつ生きていきたいと思う。