礼拝メッセージより
愛する
愛するってのは何だかとってもかっこいい言葉になっている。愛してます、ってのは恋人たちが好きな相手に言う言葉みたいで、日本では普段あんまり口にする言葉じゃないように思う。相手に向かって愛してますってなんか言い辛いなあと思う。
愛するってのは口にするのも難しいし、それを実行のも難しいなと思う。好きな人の為にはいろんなことをしてあげたいと思うけれど、誰に対してもそうできるかと言われるとなかなかそうはいかない。
神から
愛は神から出た、とこの手紙は告げる。元々人間は自己中心的だろうと思う。自分さえよければというのが自然な思いでもあるように思う。
世の中を見ていればよくわかる。独裁者は自分に都合が良い国の体制を何とか守ろうとして反対する者を力づくで排除する。独裁者じゃなくても多くの国の権力者も多かれ少なかれ自分の権力や儲けをなくさないようにしたいという気持ちをいっぱい持っているような気がする。政治家も、その取り巻きの人たちも、庶民の生活よりも、自分達の都合のいいように、自分達が儲かるようにということを優先ているような気がする。オリンピックのことを見ていてもそんな気がして仕方がない。そこに愛はあるんかと言いたくなるようなことがいっぱいある。
そして自分中心、自分勝手なのは何も権力者に限ったことではなくて、私たちも同じなんだろう。自分の勝手が出来るところではその時の気分で好き放題をしてしまう。親になると子どもに対しては勝手なことすることが多いなと思う。自分の失敗は笑って済ませといて、子どもの失敗には怒りとばしたりしてしまう。
人間てのはそんな風に自己中心、自分勝手というのが根底にあるみたいだ。しかし聖書は繰り返し繰り返し愛しなさい、愛し合いなさいという。もともと愛がない、愛を持っていない私たちに向かって愛そう、愛し合おうというのだ。そしてそれは愛が神から出ているからだというのだ。そして私たちは神から生まれ神を知っている、だから愛し合おうというのだ。神はひとり子を私たちのために世に遣わした、私たちの罪を償ういけにえとして遣わした、それほどに神から愛されている私たちなのだ、だから私たちも互いに愛し合おうと言っているようだ。
神に愛されているから私たちも互いに愛し合おうというのだ。それが神の命令だからそうしなさい、その命令を守らないと罰せられるからそうしなさいというわけではない。神から愛をもらっているから私たちも愛することが当然だろう、という感じがする。
決意
そのように愛するというのは自分勝手という自然な思いとは違う、別の思いを持つということだと思う。私たちには自然に愛するという思いがわき起こってくるというようなことはあまりないような気がする。母親の生まれたばかりの子供を愛する思いというのは自然に湧き起こってくる感情のように思うけれど、それ以外ではなかなか自然に湧き起こってはこないように思う。
だから愛するというのは感情ではなく意志であり決意なんだと思う。愛するってことは面倒くさいことだと思う。愛するとは相手のために自分が与えること、相手のために自分がいろんなことをやっていくことではないかと思う。それは面倒でしんどいことだ。自分の時間や労力、時にはお金を相手のために与えることだ。それは自分の時間が減り、自分が疲れ、自分が貧しくなることだ。しかしそれが愛するということであって、あなたのこと好きよというのとは違う。だからこそまた愛するというのは自然にできることではなく自分がそうしていくと決めること、決意して実行していくことなのだと思う。
自分の好きな相手にならそうしようという気にもなる。でも相手によっては愛せない気持ちになることもある。愛する相手は生身の人間なのだ。いろんな罪も汚れも破れも持っている人間なのだ。相手も自分勝手な面をいっぱい持っている人間、それを愛するということはなかなか難しいことでもある。それはとても大変なことでもある。
しかし私たち自身こそ、そんなどうしようもない人間でありながら愛されている、神から愛されている、だから私たちも愛そう、この手紙はそう言っているようだ。
離れない
と思いつつ、あまりしっくりこなくて例によってネットで色んな人の説教を見ていたら、ある人の説教の中にエリ・ヴィーゼルという人の『夜』という本の話しが出ていた。
アウシュヴィッツから生還した人のようだけれど、その本の中の「最も耐えがたい光景」として子供が強制収容所で処刑される場面が出ているそうだ。
囚人たちはその苦しみを見ることを強制された。
絞首台でその子がゆっくりと死んでゆく時、隣りにいた囚人が彼(ヴィーゼル)につぶやく。
「神はどこにいるんだ?」ヴィーゼルは答えた。
「あそこにいるよ、あの絞首台の上に。」
神はどこにいるのか、どうして助けないのかと思うことも多い。
でもそこにも神はいる、いつも一緒にいる、どこまでも一緒にいる、イエスはそのことを私たちに伝えてくれた。
愛するとは与えることと思っていたけれど、たとえ与えるものが何もなくても、ずっと繋がっていること、ずっと離れないでいること、それが愛することなのではないかという気がしている。
お前に何があっても決して見捨てない、お前がどんなになっても決して離れない、何があってもずっと一緒にいる、それが神の愛なのではないかと思う。
イエスは社会から差別されている者、悲しんでいる者、嘆いている者、そんないろいろな不条理に苦しめられている者のところへ出て行き寄り添った。それはひとりだけで悲しませないため、ひとりだけで嘆かせないため、ひとりだけで苦しませないためでもあったのだと思う。イエスはそんな風に私たちを愛してくれている。
イエスは命がけでこの神の愛を私たちに伝えてくれた。そして繰り返し愛しなさい、愛し合いなさいと言った。それが最も大事なことだと言った。
私たちはイエスが命がけで伝えてくれた愛を受けているのだ。だから私たちも互いに愛し合っていきたいと思う。それはまたイエスを信じることでもあるんだろうと思う。