礼拝メッセージより
新しい掟、古い掟
7節に「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。」と言われている。
福音書の中には「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)というイエスの言葉がある。
愛することは昔から言われてきていることであった。神を愛し人を愛せ、ということは旧約の時代から語り伝えられていた誰もが知っている掟だった。
申命記6:5「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
レビ記19:18「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
ユダヤ人たちはこういうことを多分耳にたこができるほど聞かされてきたことでもあったのだろう。そして誰もが、そのことはよく分かっている、よく知っていると思っていたことがらだったのではないかと思う。
正しいこと
しかし当時の教会に、愛することはずっと昔から言い伝えられてきたけれど、それだけでは駄目なのだ、あなたたちはまだまだ駄目なのだ、と言う者が現れたらしい。俺たちは何でもよく分かっている、お前達はそのままではまだまだ駄目だ、俺たちのいうことが正しい、と言うことになったらしい。そんなこと言われた不安になるよなと思う。
どちらが正しいかを主張し合うところに争いが生じ、分裂が起きる。自分の正しさを主張するところでは、相手の間違いを指摘し合うことになる。相手の間違いを指摘することで自分の正しさを証明したくなる。相手の駄目さを一所懸命に探すことになる。相手の間違いを指摘すると一瞬優越感に浸ることはできる。でもただそれだけだ。
光と闇
10-11節では「兄弟を愛する者はいつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、その人にはつまずきがありません。」と言われている。兄弟を愛する者は光の中にいる、そして兄弟を憎む者は闇の中にいるという。
喜びがない、平安がないという時、信仰心が足りないのだろうかとか、祈りが足りないのだろうかなんて思うこともある。けれども実はその原因は愛がないから、愛していないからかもしれない。暗闇の中にいて苦しむとき、それは自分が隣人を愛していないせいかもしれない。
私たちは誰に対しても、その人を愛するよりも評価することに熱心になりがちだ。あの人のあそこはだめ、ここがだめ、なんて見方をすることは得意だ。そしてこの人はいい人、この人は悪い人という判断を下す。
自分より上か下か、自分より立派か駄目かなんてことも考える。隣人をそんな風に競争相手として見てしまいがちだ。でも私たちはそんな立派さを競うために教会に集められているわけではない。
私たちは罪人同士だ。つまり間違いを持った同士だ。その間違いを指摘し合ったとしたらいくらでもできるに違いない。でもそれをしたとしたらどうだろうか。そういうところに憎しみが生まれてきて、そこはやがて修羅場になるだろう。そしてそれはまさに闇の中を歩むことだと思う。
見えないもの
愛することが大事であるなんて、そんなことは耳にたこができるほど聞いている、そんなことはもうよく分かっている、と思ってしまうところが実は一番の問題なのかもしれない。どれほど知っているだろうか。どれほどそのことを真剣に考えているだろうか。
愛とかやさしさとか思いやりというものは目に見えない。そしてそんな目に見えないことはついついないがしろにされがちだ。それよりも目に見えることの方に目を奪われてしまう。礼拝の人数が増えたとか減ったとか、献金が減ったとかお金がいくら足りないとか、(どこかの牧師はいつも言ってますが、)そんな見えるものに目を奪われてしまいがちだ。でも多分本当に大事なことは目には見えないことなのだろうと思う。
教会の命は愛なのだと思う。人は誰もが愛を求めていて、愛が必要なのだと思う。互いに愛し、互いにいたわり大事にする集まりとなること、実は教会にとってそれが一番大事なことなのだろうと思う。
愛する者に
愛するためには立派な人間になる必要もない。また愛されるためにも立派な人間になる必要もない。そんなのは関係ないのだ。お互いに間違いがあってもいいのだ。お互いに足りないところがあってもいいのだ。愛し合うとはそのままのお互いを大事にすることだと思う。だから愛することはその気にさえならば今すぐにできることだ。
愛する者は光の中にいると言う。その愛は神が私を愛しておられるところから生まれるものだ。間違いを一杯持った、罪を一杯持った私たちを、神は愛してくれている。その愛をいっぱい受けることで、私たちも愛する者となることができるのだと思う。
イエス・キリストは全世界の罪を償ういけにえだと言われている。償いとか生贄とか言われてもちょっとピンとこないところもあるけれど、兎に角イエスは命をかけて私たちに神の愛を届けてくれたのだと思う。そして今も私たちと共にいて私たちを愛し続けてくれている。
イエス・キリストが命をかけて届けてくれた神の愛をしっかりと受け止めていきたい、そして隣人を愛するものとなりたいと思う。神はそのことを一番に願っていることだと思う。