礼拝メッセージより
ヨハネの手紙
言葉自体はそんなに難しくはないけれど、なんだか抽象的でよく分からない手紙だなあと思う。
この手紙は紀元100年前後、つまりイエスの十字架から70年位経ってから書かれたものだそうだ。当時教会にはグノーシス主義と言われるような考えがあったそうだ。それは神はこの世を救うために霊的存在であるキリストを世に遣わした、そしてこのキリストを告白する者は物質の束縛から自由にされる、しかしこの霊であるキリストはイエスに一時的に宿ったにすぎない、つまりイエスのバプテスマのときに霊であるキリストが肉を持つイエスと結合したが、受難つまり十字架に先だって再びイエスを離れて神の下に帰った、そして人間イエスだけが苦しみを受け十字架につけられた、そんな考えだったそうだ。
また霊は善、肉は悪という考え方があって、イエスは神が人間となった実体ではなく、あくまでも幻であったというような考えもあったそうだ。
そういう考え方に対して、それは間違いであると訴えているのがこの手紙だそうだ。
命の言
聖書の最初にある創世記の一番初めのところに、初めに神は天地を創造されたと書いてある。神はこの世の初めから、この世が始まる前からいた、そんな神である。その神が、あるいは神の人となったのがイエス・キリストである。イエス・キリストは命の言葉、すなわち神の言葉を告げてくれた。この手紙はそのことを手紙の最初に語る。
ヨハネによる福音書の1章のところでも似たような書き方をしていて、「初めに言があった」と言って、このキリストのことを言という言い方をしているが、ここでは命の言という言い方をしている。ヨハネの福音書を書いた人がこの手紙を書いたとものの本に書いてあったけれど、分かるような分からないような書き方から言ってもそうだろうなという気がする。
そして、私たちが聞いて、見て、触れた、そのキリストのことをあなたたちに伝えるというのだ。イエスは幻であったというような考えに対して、幻ではなく私たちが実際に聞いて見て触れた、と言って神が肉体を持ってこの世に現れてくれた、それがイエス・キリストだということを強調しているようだ。
交わり
そしてそれを伝えるのは交わりを持つようになるためだと言う。父なる神と子であるイエス・キリストとの交わりを持っているという自分達との交わりを、あなたたちにも持って欲しいということだ。
イエス・キリストを知って欲しい、肉体を持ってこの世に来て下さった、私たちのことを愛し救うために人となってくれた、そんなイエス・キリストのことを知って、その交わりの中に加わって欲しいということだ。そしてそれは私たちの喜びが満ちあふれるようになるためであるという。
あなたたちがイエス・キリストを信じてイエス・キリストとの交わりの中に入ること、それはあなたたちの喜びであるというだけではなくて、私たちの喜びでもある。神を、イエス・キリストを中心とするこの交わりにあなたが加わることは、私たちの喜びであるということは、結局は交わり全体の喜びであるということだろう。
光
続いて神とはどういうものかについて語る。神は光であり、闇がまったくないという。光と闇とは全く相容れないものだ。光がまったくないところを闇というわけで、少しでも光があればそこは闇ではなくなる。
停電でもおきないと暗闇というのはなかなか経験できないが、その時でも蝋燭に火をともせば、そこは一瞬にして暗闇ではなくなる。神の光というのもきっとそんな光なんだろうと思う。どんな暗闇でも、神の光がポッとともれば一瞬にして暗闇ではなくなる、そんな光に私たちは照らされている。光に照らされている限りそこには闇は存在できないのだ。
しかしその光によって私たちは自分の本当の姿を映し出される。そしてそこに映し出される私たちの姿は罪人であるという姿である。しかしその光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められるという。
だから自分には罪がない、あるいは自分の罪は周りの人に比べたら大したことはない、なんて言う人は本当はこの光に照らされてはいないということなんだろう。あるいは照らされているのに、自らを欺いており、真理がない状態なのだ。
しかし自分の罪を公に言い表すなら、神はその罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくれる、という。
私たちは誰もがそんな罪を持っている、その罪がないという者は神を偽り者とすることであって、神の言葉は私たちの内にないという。具体的なことはよく分からないけれど、霊的な自分達は罪を犯したことがないというようなことを主張する人もいたようだが、そういう人たちは神を偽り者とすることであって神の言葉はその人の内にはないと言っているようだ。
光の中を
結局分かるような分からないような話しだなと思う。
そう思いながらトイレに座っている時に、サッカー選手のことを思い出した。ブラジルの選手に多いような気がしているけれど、入場する時に両手を人差し指を上に向けて手を挙げて見上げるポーズをよくしている。神に向かって祈っているんだろうあんと思う。
ふとそれを思い出して、光の中を歩むというのは神の光に照らされているということなんだろうなと思いつつ、その光はそれこそ上から降ってくるんだろうかなんてことを思った。最初は天からスポットライトで照らされるようなイメージを持っていたんだけれど、神の光は天からじゃなくて、心の中から私たちを照らしているんじゃないかという気がしてきた。遠くから照らされるんじゃなくて、中から照らされるんじゃないかという気がしていた。
中から照らされると全部バレバレということかもしれない。罪も穢れも隠しようがないということかもしれない。けれど御子イエスの血によってあらゆる罪から清められると言われている。
罪とはなんなのか、悪い行いなのか、邪悪な思いなのか、それとも神に背くことなのか、あるいはそんなこと一切合切含むことなのか、それも分かるような分からないような思いがある。また御子イエスの血によって清められるというのも、ユダヤ人にとっては納得できるることかもしれないけれど、分かるような分からないような気持ちだ。
よく分からないけれど、罪がないなんてとても言えない、間違いだらけ、失敗だらけ、不誠実な不信仰なこの自分との交わりを持つために、交わりというのもなんだか格好良すぎる気がして、交わりというか関わりを持つために、イエス・キリストがやってきてくれた、そして今も私たちの心の中にいて、心の中から私たちをその光で照らしてくれているような気がしている。
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8:12)
あなたがたは、世の光である。(マタイによる福音書5:14)
こんな私なのに、世の光であるイエスが心の中にいてくれている。だからこそこんな私でも世の光でいられるのだろう。すごい。