礼拝メッセージより
占いの霊
16章16節を見ると、パウロたちがフィリピの町にやってきた時、祈りの場所に行く途中に、占いの霊に取り付かれている女奴隷に出会った。
フィリピはローマの植民都市で、戦略上の重要拠点であり、ローマの兵士の一団が駐屯していたそうだ。
そのフィリピにはユダヤ人の会堂がなくて、川のほとりを祈りの場所としていたようだ。そこにいく途中にこの占いの霊に取りつかれたと言われる女奴隷に出会った。
占い師ということは未来を予言する神の託宣、おつげを与えられる人ということだろうけれど、現代の感覚から言うと、この人は精神的な病気を持つ人だったのではないかという気がする。古代社会では神々の心を入れるために正しい分別をその人から取り去っているという考えがあって、このような人たちは尊敬もされていたそうだ。そしてそういう人たちを利用する輩もいたわけだ。
この女性がパウロたちの後についてみんなに言いふらす。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」。内容としては間違っていない気もする。そのままパウロたちもこの女性を利用して自分たちの宣伝をしたらよかったような気もしないでもない。でもパウロたちはそうはしなかった。しかし何日もこんなことが続いたためにパウロはイエスの名によってこの霊を追い出したという。女性を助けるためではなく、あまりにうるさいから仕方なくそうしたという感じだ。それにしてもパウロもイエスと同じように悪霊を追い出すことができたということか。もちろんイエスの名によって追い出してるんだけれど、パウロにできてどうして僕にはできないんだろう。
偏見
パウロはこの女性を癒したということになるの思うけれど、この女奴隷の主人たちは彼女が占いができなくなってしまい金儲けが出来なくなったということに腹を立ててパウロたちを役人につきだす。それも町を混乱させているという内乱罪、騒乱罪として。「この者たちはユダヤ人で」と言われているということは、この地方ではユダヤ人に対する偏見とか差別とかもあったのだろう。そういうことでパウロとシラスは捕まえられ鞭で打たれ、しかもご丁寧に一番奥の牢に木の足枷をはめられて入れられてしまう。ユダヤ時だからということで手荒に扱ったということのようだ。
讃美
そもそも16章9節に「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。」とあるように、幻を見て神の導きと信じてマケドニアに来たパウロたちだった。ところがマケドニアに来て早々に鞭打たれて牢屋に入れられてしまう。全く思いもよらぬ事態になってしまったといったところだと思う。
しかしパウロとシラスはその境遇を呪うこともなかったようだ。そんなことは承知の上の旅だったんだろうか。真夜中ごろに彼らは讃美歌を歌い祈っていたという。そしてその時大地震が起こり、牢の戸が開き囚人の鎖も外れたという。
聖書では地震というのは神が介入するような時、神の業が起こる時によく起こると言われている。イエスが十字架で息を引き取る時や、マリアたちがイエスの墓を見に行った時に地震が起こったと書いてある福音書もあるし、世の終わりの時にも地震が起こると言われていたりもする。
あの辺りは地震はそれほど珍しいことではないそうだけれど、それにしてもうまくいきすぎてる気がする。地震でかんぬきが外れて牢の戸が開くことはありそうだけれど、囚人の鎖まで外れるってどういうことなんだろうか。神の業って言われたらそれまでだけど。
看守
この出来事に一番慌てたのは牢の看守だったようだ。
ローマの法律に従えば、囚人が逃亡した場合、看守はその囚人が受けるはずの罰を負わないといけないとされていた。死刑囚を逃がすと死刑にされてしまうということのようだ。
そこでこの看守は、牢が開いてしまったのだから当然囚人は逃げていると考え自殺しようとする。この後の自分に対する罰を考えると恐ろしくてたまらなかったのかもしれない。思いもよらない大変な事態に彼の頭の中は相当に混乱していたに違いないだろうと思う。どう対処すればいいのかも分からず、ただただその後の処罰に対する恐怖におののいているかのようだ。
束縛
しかしパウロたちは逃げないでそこにいた。逃げる自由を与えられたのにあえてそこにとどまっていたというのだ。何が彼らをそうさせたのだろうか。
うがった見方をすれば、彼らはローマ帝国の市民権という切り札は持っていた。市民権を持つ者に対して、鞭打ったりしっかりした審理もしないで牢にぶち込んだりすることは許されないことだったようだ。そういう切り札を持っているという余裕も少しはあったのかもしれない。でも市民権があるから早く出せと騒ぐわけでもなく、讃美歌を歌って祈っていたというのはなかなかすごい。
そんなパウロたちの姿を見て、看守は彼らの信じるイエスを、自分も家族も信じるようになったようだ。
自由
私たちは牢屋の中には自由はないと考えている。牢屋の外にこそ自由はあると。足枷をされていないことこそが自由であるというふうに思っている。でも実は案外そうでもないらしい。
牢屋の中にいたパウロとシラスは真夜中に讃美歌を歌い祈っていた。足枷もされていたが、でも心は誰にも縛られてはいないようだ。足枷はされていても、自由な気がする。自由とは自分の体を思い通りに動かせることとはちょっと違うみたいだ。
身体は自由に動かせても、私たちは結構いろんなものに縛られていると思う。
昔学校に行っている時も会社に行っている時も、日曜日の夕方が近づいてくるといつも憂鬱だった。明日からまた学校かとかまた会社か、なんて考えると憂うつで、休みにもあまり休めないようなところがあった。そのころ雑誌か何かで、東京のテレビ局のアナウンサーだったと思うけれど、その人は休みの日は夜遅くまで楽しく遊ぶと書いてあって、次の日は朝から仕事があるというのに、そんなことができる人がいるのかと知ってびっくりしたことがあった。
自分を一番縛り付けているのは案外自分自身かもしれないと思う。
イエスが「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と言ったけれど、明日のことや明後日のこと、そしていろんなことを思い悩んで、そのことに縛り付けられてしまって、それで動けなくなってしまっているなと思う。思い悩むとちょっとしたことも面倒になって先延ばしするし、食事をすることさえ億劫になってしまう。
牢に入っていても、牢に入れられてしまった、何ということになってしまったのか、俺は何て不幸なんだ、何て惨めなんだ、と嘆くばかりだったとしたら、それこそどんどん不幸になっていくような気がする。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤの信徒人への手紙5:1)という言葉がある。この自由はたとえ牢につながれてもなくならない自由なのだろう。どんな境遇でも持つことの出来る自由なのだろう。
冤罪で服役させられたという話しを聞くことがある。最初から犯人だと決め付けられて、いくらやってないと言っても全然聞いてもらえないなんて話しも聞いてもらない信じてもらえない、なんてことが実際にあるようだ。もし自分がそうなってしまったら一体どんな気持ちになるんだろうかと思う。しかも何十年も服役させられることになったとしたらどうなるんだろうか。
しかしそれさえも受け入れることができたらすごいなと思う。服役させられても、そこが自分の世界だと思えたとしたら、それはもう自由にされているのに近いような気がする。解放されるまではそこが自分の世界だと思えのと、只自分の境遇を呪っているのとではずいぶん違ってくるような気がする。そこでさえ神と共に生きるという感じになったら凄いなと思う。
パウロたちはそんな気持ちだったのかなと思う。牢屋の中だろうが外だろうが、いつも神と共にいると思えるならば、それこそが本当の自由なのではないか。
ありのまま
何物からも縛られない自由をイエス・キリストは私たちに与えてくださっっていると聖書は告げる。キリストによって与えられた自由、それは私たちにとっての宝物だと思う。
私たちは誰もが、こうしなければいけない、ああしなければいけない、という声を聞かされてきている。そしてその声を取り込んで実は自分自身で自分を縛りつけていることが多いような気がする。男らしく女らしくなんてのから、クリスチャンらしくなんてものまでいろいろなものがある。それもそうしないとなんとなくまわりの目が気になるから、なんてことで本当の自分でない、うその自分を演じてしまうことが多い。
本当の自分でいることを自分で認められないというのは本当に苦しいことだ。キリストが私達を自由にしてくれたということは、本当の自分でいい、本当の自分でいなさい、ありのままの自分でいなさいということなんだろうと思う。
「幸福にもっとも重要なのは、喜んでありのままの自分でいられることである。」(エラスムス、15.6世紀の神学者、司祭)
ありのままの自分を喜ぶためには、ありのままの自分を認めてもらい、ありのままの自分を受け止めてもらうことが必要だ。そしてそのためにはイエスの言葉を聞くことが必要なのだと思う。
弱く惨めで、挫折し、失敗し、いろんなことに悩み、後悔し、間違ってばかりの私たちだ。でもそのあなたが大事だ、そのままの、ありのままのあなたが大好きだ、イエスは聖書を通して私たちにもそう語りかけてくれている。
そのイエスの言葉を聞くこと、イエスの言葉を受け止めること、それこそがイエスを信じることであると思う。そしてこのイエスと共に生きること、それこそが救いなのだと思う。