礼拝メッセージより
選択
人生は選択の連続だ。毎日毎日選択している。買い物に行ってもどれにしようかと選んでるし、外食する時にも何を食べようかと選んでいる。あるいは進学する学校も選ばないといけないし、結婚する相手も選ばないといけない。大きなことから小さなことまで選択することばかりだ。
僕は兄貴が一人いるけれど6歳も年上で、祖父母とも同居していて、物心ついたときには周りが大人だらけだった。小さい頃から何をしてもいつも指摘されていて、自分の選択にもいつもケチをつけられてきていたような記憶がある。何か買ってきたときも、あそこの方が安いとか、こっちの方がいいとよく言われていたような記憶がある。きっとその所為だと思うけれど、自分の選択を不安に思ったり、間違ってしまったといつまでも後悔する気持ちが強い。後悔するのを恐れる気持ちが強くてなかなか選択できないなんてことも多い。高額な買い物をする時なんてとても恐くて勇気がいる。
ところがある時、誰かの文章の中に、後悔は選択をした瞬間に必ず生まれるというようなことが書いてあった。ということは後悔することは当たり前なんだから後悔することを怖れる必要もないんだと思うようになった。そうすると随分楽になった。
それでもやっぱり大変な選択もいろいろあって、教会の故障したエアコンを新しくしないといけないと思いつつ、どこに頼めば安いんだろうか、と悩むばかりで調べもしないで数年がすぎてしまっている。一番恐れているのは、近々屋上の防水シートの張替をしないといけないのに、建築献金がグッと減ってしまうということのような気もするけれど。そうしたら牧師館のエアコンの一つが故障してしまって、やっと見積もりを頼む気になったけれど、その見積もりを見てまたうろたえている。
どれもこれも神さまが教えてくれたら良いのになという気もする。神さまがこれにしなさい、どこそこに頼みなさい、後のことは心配するなとはっきり教えてくれたら悩まなくてもいいのになあと思う。そうやって一挙手一投足指示してくれたら、全部神さまの思いのままだし、全部神さまの所為だし、そうしたら後悔することもなくなりそうな気がする。でもそれだとまるでロボットみたいで、それはそれでちょっと悲しいなとも思う。
御心ならば
昔うちの教会に、元海外青年協力隊でモロッコに行っていたという青年が来ていたことがある。モロッコはイスラム教の国だそうだ。イスラムの国ではよくあるらしいけれど、誰もがアッラーの思し召しならば、ということを言うそうだ。誰かと会う約束をするような時にも、明日の何時にどこそこでというような待ち合わせをする時にも、アッラーの思し召しならばと言うのだそうだ。そうとう頻繁に言うらしくて、日本から協力隊で行った青年達もそれを真似て言っていたそうだ。
アッラーの思し召しならばと言うことで、約束を守れなくてもそれはアッラーの思し召しではなかった、ということになる。だから、教会に来ていた彼女は、アッラーの思し召しならばというのがただ単に無責任な言葉のように思えていたそうで、いっしょにモロッコに行っていた他の協力隊の若者達もちょっと馬鹿にしたような気持ちで真似ていたそうだ。
でも彼女は、アッラーの思し召しならば約束の時間にそこに行く、というのは神を信じていないで言ってるならばただの無責任だけれど、無責任で言ってるのとは違うんじゃないかと思うようになったなんて言っていた。
宣教旅行
使徒言行録15章36節以下を見ると、使徒会議を終えたパウロはアンティオキアに帰ってからしばらくして、かつて主の言葉を宣べ伝えた町を訪問しようと再び出かけた。第2回宣教旅行というふうに言うそうだが、その時6節以下にあるように、アジア週で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地上を通って行き、ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかったので、ミシア地方を通ってトロアスに下ったというのだ。
さらに、その夜パウロは、一人のマケドニア人がマケドニア州に渡ってきて助けて下さいと願ったという幻を見たという。それって夢じゃないのと思ったりもするけど違うのかな。パウロは神が召されているのだと確信したそうで、すぐにマケドニアに出発したそうだ。
そしてサモトラケ島を経由しネアポリスに着き、そこからフィリポという町に向かった。
フィリピはローマの植民都市で外国に建設された小さなローマといったような町だったそうだ。そしてそこは戦略上の重要拠点で、ローマの兵士の一団が駐屯していた。
フィリピにはユダヤ人の会堂がなかったらしい。会堂がないところでは、ユダヤ人は祈りの場所を持っていて、それはたいてい川の畔だったそうだ。そこでパウロたちは安息日に川岸に行き、祈りの場所を見つけ、そこに集まっている婦人たちと話しをした。
そこにリディアという婦人がいた。紫布を商う人で、神をあがめている人であったと書かれている。紫の染料は、ある種の貝殻から一滴一滴集めなければならないような貴重な高価なものだったそうだ。その紫に染めた布を扱うリディアは上流階級の人たちを相手に商売していたということだろう。彼女はパウロの話しを注意深く聞き、彼女も家族もすぐにバプテスマを受けたというのだ。
リディアはかなり裕福で大きな家も持っていたのだろう。彼女はパウロたちをかなり強引に家に招いたなんて話しも書かれている。
パウロは聖霊に禁じられたり、イエスの霊に許されなかったり、幻を見せられたりしながら進む道を決められてきたと使徒言行録は語っている。最初から予定を立てて、何月何日にここに行ってというような旅ではなかったようだ。そうではなくて、その時々に神に導かれるままという感じで進んでいるかのようだ。
神に導かれてというととてもかっこいいけれども、実際はどんなだったのだろうかと思う。聖霊に禁じられた、イエスの霊に許されなかったというのはどういうことなんだろうか。あそこに行ってはいけません、という声が聞こえたのだろうか。それとも通せんぼされたり、向こうへ行けと合図を送ってくれたんだろうか。
聖霊から禁じられたというのは、そこへ行こうと思っていたのに、いろんなトラブルに遭ったり、思い違いがあったりして行けなくなってしまったということなんじゃないかなと思う。それは見方によってはたまたまそうなってしまったと言うこともできるようなことなんだろうと思う。実際には神の姿が見えたり声が聞こえたりということではなく、見えないところで神の導きがあったということを言っているんじゃないかと思う。
計画
昔教会で話しをしているときに、一人の若者が献身して牧師になろうかどうか悩んでいる、でもそれが神の導きなのかどうか自信がない、というような話しをしていた。その時誰が言ったのか忘れたけれど、進むべき道は残されていく、他の道を行こうとしても閉ざされて行けなくなっていって、神から示される道だけが残っていく、だからあんまり悩むな、というようなことを言っていた。
そうなのかなと思う気持ちと、そうなんだろうなと思う気持ちがある。他の道が閉ざされるということは、あっちへ行こうとしてみてもダメで、こっちへいこうとしてもダメ、それであっちこっちで行き詰まって、最後に残された道を行くというようなことなんじゃないのかと思う。その時には分からないけれど、後でよくよく考えると、結局はそれが神の導きだったというようなことなんじゃないかと思う。
風に吹かれて
人は自分の将来をいろいろと思い描きながら生きている。でもそうそう思い通りにはいかない。今呉でこうやって生きていること自体、自分が若い頃から計画したことではない。
人生は自分の思い描いたようにいかないこと、計画通りにいかないことも多くてイライラする。病気になったり怪我をしたり、願ってないことが起きることだってある。
思い通りに行かない時、何をやってもうまくいかないような時、どうしてこんなことになるんだと落ち込むけれど、そこにも神の計画があると思えることはとても幸せなことだと思う。自分の思い通りではなくても、願いどおりではなくても、でもそれも全ては神の計画の中にあること、そんな時も神の導きの中に生きているんだということを知ることで、そこから一歩を踏み出す力が湧いてくるだろうと思う。
私たちにはそれぞれに神の計画があり、神に導かれて生きている。私たちにはそれがなかなか見えにくい、いやほとんど見えない。でも私たちは実は見えない聖霊の風に吹かれて生きている。見えないから不安になることもあるけれど、この風は決してなくなることはない。
今日はペンテコステで聖霊降臨日ということになっている。使徒言行録の2章にその時にことが書かれている。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」て、イエスの弟子たちが聖霊に満たされていろんな国の言葉で語り出したなんてことが書かれている。
そんな出来事がここに書いてあるように本当に起こったのかどうか分からないけれど、大事なのはそんな耳に聞こえるような、また目に見えるような出来事があったかどうかというよりも、弟子たちの心の中に聖霊が降ったこと、弟子たちの心に聖霊に風が吹いたということ、そんな心の中の見えない出来事の方がよっぽど大事なことだと思う。
僕はここに書いてあるような見える出来事を見たことはない。けれど見えない聖霊の風は私たちにも吹いている。
ハーネス
人間は間違ったり失敗したりするけれど、そんな人間を神さまは御心のままに導いてくれているということみたいだ。
先日スーパーで子供にハーネスをつけてお父さんがうしろからついてきているお客さんがいた。ちゃんと人間用のハーネスがあるそうだ。店の中を走り回ったり、店から飛び出して危ない目に遭う子供が結構いるけれど、ハーネスなら子供もある程度の自由があるし、迷子にも危険な目にも遭うこともなくていいなと思った。
もしかして聖霊はそんなハーネスにように私たちを守ってくれているのかもしれないなと思った。躓いたり転んだりすることはある、けれど決して独りぼっちになることはない。
悩みつつ、失敗しつつ、後悔しつつ、でもそんな私たちといつも共にいてくれているイエスと一緒に、この聖霊の風に吹かれながら生きていきましょう。