礼拝メッセージより
PTA
PTAの役員を誰もやりたがらない、だから役員がなかなか決まらない、なんて話しをよく聞く。私だって仕方なくやらされたんだから、あなたもやりなさいと言うようなことを言われたなんてことも聞く。
今回の箇所を読みながらそんなことを思い出した。
対立
使徒言行録の10-11章を見ると、かつてペトロが幻を見せられて、カイサリアという所にいたローマ兵コルネリウスたちにバプテスマを施したことがあった。その時に異邦人と一緒に食事をしたことをエルサレム教会、ユダヤ人キリスト者から非難されたようなことがあった。それに対してペトロが弁明をした、なんてことが書かれている。11:18には『この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を讃美した。』と書かれている。
ユダヤ人キリスト者の教会であったエルサレム教会はユダヤ教の社会の中に生きている人たちの集まりでもあったので、ユダヤ教の習慣を守り続けている人も多かったのだろう。ペトロたち使徒や、イエスの弟であるヤコブが中心となっていた教会だったが、もともとユダヤ教の中の一派という気持ちでいたようであるし、当初は異邦人キリスト者も旧約聖書の律法を完全に守るのが当然だと思っていたようだ。
イスラエルの北にある教会であるアンティオキア教会は、ステファノたちの考えに同調する人たちが作った教会で、バルナバやパウロが中心となっていた。自分たちはユダヤ教の一派ではなく、ユダヤ教を超えるものであると考えていたようだ。ここにはユダヤ人も異邦人もいて、律法からは比較的自由な考えを持っていたらしい。
そこで15章にあるように、エルサレム教会からアンティオキア教会へ使者がやってきて、割礼を受けないと救われない、というようなことを教え始めた。そこで激しい意見の対立と論争が生じた、と2節に書かれている。
アンティオキア教会はエルサレム教会へパウロとバルナバとそのほか数名を送ってこの問題を協議することになった。
ペトロとヤコブ
彼らはエルサレム教会の人たちに、異邦人が神を信じるようになったことを説明したようだが、そこでファリサイ派から信者になった人が、異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだと言った。この人たちの一派がアンティオキア教会へやってきて異邦人も割礼を受けないと救われないと言ったのだろう。
そこで議論を重ねた後ペトロが登場する。ペトロは異邦人が福音を聞いて信じるようになったことを語り、自分達が負いきれなかった重荷をどうして異邦人に背負わすのかと言う。最後に登場するヤコブはイエスの兄弟である。エルサレム教会では大きな影響力を持っていたようだ。彼はこの会議においてアンティオキア教会の働きを聞き、またペテロの話しを聞き、異邦人にも割礼を受けなくても、神が働いていることを認める。
そして最後にヤコブは、旧約聖書で預言されているように異邦人が主を求めている、神に立ち帰る異邦人を悩ませてはならない、ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと手紙に書くべきだ、と発言する。どうやらこれが最終決定だったようだ。
対立?
ところで1節で、「ある人々がユダヤから降って来て」と書かれていて、これはずっとエルサレム教会の代表者だと思っていた。これまで僕はエルサレム教会全体が、異邦人も割礼を受けないと救われないと頑なに主張しているのかと思っていたけれど、どうやらそうではないようようだ。エルサレムとアンティオキアの教会同士が真っ向から対立していたわけではないんじゃないかな。
異邦人にも割礼が必要だと主張していたのは、エルサレム教会全体ではなく、教会の中の一部の人たち、恐らく元ファリサイ派の人たちで、自分が大事にしている律法をないがしろにしているような者たちを認めたくない人たちだったんだろうと思う。
でもエルサレム教会全体がそういう考えだったわけではなく、そもそもバルナバはエルサレム教会からアンティオキア教会へ派遣された人だし、12使徒のリーダー的な存在であるペトロも異邦人に神の働きを見ていてアンティオキア教会の立場を弁護している。そうするとエルサレム教会の考え方がこの会議で180度変わったわけではなく、それまではっきりしていなかった割礼や律法対する立場を明確にしたということなんじゃないかなと思う。
つまり一部の人は異邦人も割礼を受けないと自分達と同じ仲間とは認めないというようなことを主張していたのだろうけれど、エルサレム教会としては割礼を受けていない異邦人がいたとしても同じ仲間であると認めるという決定をしたということなんだろうと思う。
仲間でいるため
ユダヤ教社会の中にあるエルサレム教会が、少しずつユダヤ教と決別していっているということなんだろうと思う。
最後にヤコブが語った言葉は、ユダヤ教からキリスト教へとなっていく狭間の葛藤というか矛盾というか、そんなものを感じる気がする。
「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」というのは全くユダヤ教の主張のようだ。割礼の問題は譲歩するけれど、これだけは譲れないということなのかなと思っていた。
避けるように、なんて言い方だと命令しているみたいだけれど、実はこれはアンティオキア教会へのお願いなんじゃないかという気がしてきた。
パウロは偶像に対する供え物についてコリントの信徒への手紙一 8:4-9に「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」とある。
パウロは偶像なんてのは実際にはないのだからそこに供えたからといってもその肉が汚れるなんてことはない、だからそれを食べたからといってもどうってことはない、と考えている。しかしみんなが同じように考えているわけではない、弱い人々はそうは考えられない、だからといってそういう人たちを非難したり卑下したりするのではなく、そういう人たちのことを配慮するようにと勧めている。
パウロから言うと、ヤコブやエルサレム教会の人たちこそが弱い人々ということになるんだろうと思う。ヤコブはパウロのように考えることはできなかったのだろうと思う。偶像に供えたものは汚れた物だという思い出ずっと過ごして来たので、偶像なんてのは実際にはないから汚れるなんてことはないと言われても気持ちがついていかないというようなことだったんじゃないだろうか。そういうことから偶像に供えて汚れた肉とか絞め殺した動物の肉と血を避けるようにと手紙に書くようにと言ったんだじゃないかなという気がしている。これからも仲間だから、そんな自分達のことを配慮して欲しいという気持ちなのかなという気がしている。
喜び
この会議で重要なことは、結局はどこに神が働かれているかということだった。割礼が必要なのかどうかというのを判断する材料は、割礼が神の働きに関係しているのかどうかということだった。割礼のない者たちにも神が働いているという事実こそが、この会議の焦点だったように思う。その事実を前にしてはユダヤ人達も黙らざるを得なかったんだろう。
ユダヤ人たちは律法を守ることが神に従うことであると考えていたようだ。だから割礼を受けるべきだ、汚れた物を避けるべきだということになっている。けれどもそうしようと努力することはペトロが言うように、先祖も自分達も負いきれなかった軛であったし、それを求めることはヤコブが言うように、異邦人を悩ませることだ。
その神の働きがあるかどうか、そこから何が必要か必要でないかを判断しているみたいだ。
では神の働きがあるかどうかをどこで判断するのか。それは神の言葉を聞くことで力づけられたり励まされたり、あるいは慰められたり癒されたり安心したりしているかどうかなんだろうと思う。結局はそこに喜びがあるかどうかなのではないかと思う。
異邦人が神を信じ喜ぶ姿に接して、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者たちも本当に必要なものは何なのか、本当に大事なものはなんなのかと考えるようになっていったんだと思う。そして少しずつ変わっていったんだと思う。
今の教会でも、あれをしてはいけないとか、これをしてはいけないとか、よく分からないけれどそんなしきたりみたいなものが結構あるのかもしれない。背負いきれない軛のようなしきたりがあるのかもしれない。それを新しくきた人達に強要しているようなこともあるのかもしれない。
そこに喜びがあるかどうか、喜んでしていることなのかどうか、ちょっと立ち止まって考える必要があるのかもしれない。
一緒に喜びましょう、と言って多くの人を招きたいなと思う。
信仰って、守るものじゃなくて喜ぶものじゃないかなと思う。