礼拝メッセージより
諍い
先日の演奏会で、「若き日は燃えて」という歌を歌った。その中の詩に、『笑おう、歌おう、語りあおう、ときに躊躇いあろうとも』というのと『歩こう、歌おう、信じあおう、ときに諍いあろうとも』という言葉があった。若い日に共に歌おう、集まろうというような詩の中で、躊躇いとか諍いという言葉があって、人が集まるところでは、時にはぎくしゃくすることがあるのが当たり前なんだろうな、なんてことを思いつつ歌っていた。
キリスト者
今日の聖書では、アンティオキアで弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったと書かれている。キリスト者とはキリストに属する者という意味だそうだ。呼ばれるようになった、と書いてるように自分達から言い出したものじゃなくて、他の人達から言われた呼び名、それも蔑んだ言い方だったそうだ。キリストにつくもの、キリストに従う者、なんていう説明も目にしたけれど、蔑んだ言い方ということだったらきっとキリスト野郎というような意味合いなんだろうなと思う。教会側はそれを逆に自分達の呼び名にしてしまったようだ。
離散
ステファノの処刑をきっかけに起こった迫害によってイエスを信じるユダヤ人たちが地方へ散らされていった。サウロもその時は迫害する側にいたわけだけれど、その時にエルサレムから離れて地方へ散らされていったのは、ギリシャ語を話すユダヤ人たちだったようだ。この迫害で教会員はみんなエルサレムから逃げたのかと思ってたけれど、どうやらそうじゃないみたいだ。
エルサレムの教会ではヘブライ語を話すユダヤ人たちとギリシャ語を話すユダヤ人たちとの諍いがあったらしい。ユダヤ地方出身の人達はヘブライ語を話したようだが、ユダヤ地方以外出身のユダヤ人たちはギリシャ語を話していたようで、二つのグループが出来ていた様子がうかがえる。育った環境の違いから、聖書や律法に対する考え方の違いなどもあったのだろう。
そこでイエスの直接の弟子である使徒とは別に、その下に雑務を担当する7人を選んだと聖書には書かれているけれど、実はこの7人は雑務というよりもギリシャ語を話すグループの指導者として選ばれたのではないかと聞いたことがある。
その7人の中にステファノがいて、ステファノが処刑され迫害が強まったことでギリシャ語を話すユダヤ人たちが地方に逃げていったということらしい。迫害する側もヘブライ語を話すグループには手を出さなかったということなんだろう。
当時のエルサレム教会はユダヤ教とは別の宗派というよりは、ユダヤ教の中の新しい一派というような考えだったようで、特にヘブライ語を話す人たちはユダヤ教のしきたりを厳格に守っていたようだ。使徒言行録3章には、ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に上って行った、なんてことも書かれているし、迫害の後エルサレムに残った者たちは異邦人がキリスト者になるためには割礼が必要であると主張している。
ユダヤ地方でユダヤ教のしきたりの中で、律法を大事にする生活を続けてきた人たちにとって、律法をないがしろにする者たち、大事にしない者たちは結構目障りだったんじゃないかなと思う。そのために教会の中でもヘブライ語を話すグループとギリシャ語を話すグループで多少の諍いもあったのかなと思う。ギリシャ語を話すグループが迫害を機に逃げることを残ったヘブライ語を話すグループはどう思ってたんだろうか。泣く泣く見送ったんだろうか。それとも不真面目な奴等だから迫害されても仕方ないと思ってたんだろうか。それともいなくなってホッとしたんだろうか。
ユダヤ教の迫害した側も、そんなユダヤ教のしきたりや律法に対する姿勢の違いから、ギリシャ語を話す教会員だけを迫害していったのかな、そうすることで教会の分裂を狙ったのかな、なんてことを想像している。
アンティオキア
はっきりしたことは分からないけれど、エルサレムから逃げて散らされていった人達はいろんな所でイエスのことを伝えていったけれども、最初はユダヤ人以外には語らなかったようだ。ユダヤ人は異邦人を、地獄の火を燃やすかまどの燃料として創られたと考えていると聞いたことがある。だから最初は眼中になかったのかな。だれど、アンティオキアでギリシャ語を話す人達にも話したところイエスを信じるようになった。アンティオキアにはキプロス島やキレネから来た者がいたからだ、と書かれている。キプロス島は地中海の島で、キレネとはイタリアに近いアフリカの町のようだ。
アンティオキアは当時はローマ、エジプトのアレキサンドリアに次ぐ、第3の大きな町だったそうで、各地から色んな人が集まっていたそうだ。つまり異邦人がいっぱいいて、そういう人たちもイエスを信じるようになったようだ。
エルサレム教会は先ほども言ったようにユダヤ教の一派であるという意識があったようで、異邦人を見下す気持ちも強かったんだろうと思う。
そんなエルサレム教会にとって異邦人が自分達と同じ神を信じるとはどういうことか、なかなか理解できない、信じられないことだったんじゃないかと思う。
そのアンティオキア教会の様子が伝えられたのでエルサレム教会はバルナバを派遣することにした。
バルナバ
バルナバは使徒4:36-37によると、レビ族の人で、キプロス島生まれのヨセフという名前で、持っていた畑を売り、そのお金を献金したとある。
また使徒9章を見ると、サウロはキリスト者を捕まえにダマスコへ向かう時にイエス・キリストと出会いイエスこそ神の子だと宣べ伝えるようになり、エルサレムで弟子たちの仲間に入ろうとしたけれども初めは弟子たちがそのことを信じなかった。しかしその時にサウロのことを弟子たちに説明したのがバルナバだった。
しかしエルサレム教会はなんのためにバルナバを派遣したんだろうか。ただ様子を知るためなんだろうか。それとも勝手なことをしないように釘を刺しに言ったのか、それとも異邦人と関わっていることを咎めるためだったんだろうか。
バルナバはアンティオキアに到着すると、「神の恵みが与えられた有り様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた」と書いてある。
その後タルソスへサウロを探しに行き、アンティオキアに連れ帰った。9章19節以下を見ると、サウロはキリスト者を捕らえようとダマスコへ向かう途中にイエスと出会い回心したが、その後ダマスコでイエスこそ神であると宣べ伝えて、今度は逆にユダヤ人たちから命を狙われることになってしまう。その後サウロはエルサレムへ行き、バルナバの仲介で弟子たちに会うが、また命を狙われタルソスへ逃げていた。
バルナバはそのサウロを捜し出してアンティオキアに連れて行ったと書かれている。余程サウロが気に入っていたのか、あるいはサウロの能力を見抜いていたのか。
バルナバとサウロはアンティオキア教会に1年間いて教会を指導したようだ。そしてこのアンティオキアで弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったというわけだ。
諍い
教会も人の集まりであっていろんな諍いがあったようだ。生きてきた場所や環境が違えば当然考え方も違ってくる。
その後サウロとバルナバはアンティオキア教会から派遣されて共に伝道旅行に出ることになる。しかし15章36節以下を見ると、次の伝道旅行にマルコと呼ばれるヨハネを連れて行くかどうかということで二人の間に諍いが起こり、二人は別々の仲間を連れてそれぞれの伝道旅行へ出発したことが書かれている。
バルナバはすごいなと思う。教会を迫害していたサウロが回心するなんてなかなか認められることではなかったと思う。またユダヤ人にとって異邦人に神の導きがあるなんて到底信じられることでもなかったようだ。
しかしバルナバが回心したサウロを見て、そこに神の働きをみたように、またアンティオキアでの異邦人が信じるという出来事の中に神の恵みを見たように、目の前に起こっている出来事に神の導きを見ることが大切なことだと思う。
たとえ諍いあろうとも神の言葉、神の福音は前進するということなんだろうと思う。だから諍いがあったとしても、その諍いに捕らわれてしまうのではなく、その諍いばかりを見つめるのではなく、人間の諍いさえ包み込む大きな神の支えがあることに目を向けることが大切なんだと思う。
諍いばかりではなく、私たちの間違いや無能さや不信仰や不安やだらしなさ、そんなものも全部だき抱えて神は支えてくれているということだ。どんな時にも神は共にいてくれている。何があってもいつも必ず一緒にいてくれている。そしてそのことを信じるようにしてくれていることはまさに神の業だと思う。そう信じられることはありがたいことだ。