礼拝メッセージより
信念
今日の箇所に登場するサウロ、サウルはヘブライ読みの名前、パウロはギリシャ語の名前だそうだ。何とまぎらわしい。
サウロは、ヘレニズム文化の栄えたキリキアのタルソスという都市で生まれ育った、ユダヤ地方から離れているディアスポラ(離散)のユダヤ人だった。今のトルコの地中海に面した町だそうだ。そして彼は、ローマの市民権を持っていた。しかし彼はイスラエルの民としての誇りを持ち、ファイサイ派の厳格な教育を受けた。そして律法には落ち度のない者だったと自分で語っている(フィリピ3:6)。律法を守ることこそ神に従う道だという思いで生きていたようだ。
その頃、イエスという男を信奉し、律法を軽視する集団が広まっていたわけだ。律法に熱心なサウロにとっては、許しがたいことだったようだ。
「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き」なんてあるように、サウロはキリスト教徒迫害を、ただ上の人から命じられてしたのではなく、自らの熱心さから、つまり自らの信念に基づいてキリスト教会を迫害していたようだ。イエスをキリストだとか救い主だなんていうのは律法に禁じられている偶像崇拝であって、そういう邪教を排除することは神を喜ばすことでもあると思っていたのではないかと思う。
7章54節以下のところを見ると、ステファノが処刑される時にそこにいて、証人達の着物の監視をしていたことが書かれてあり、8章3節には「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」と書かれている。
このステファノは12使徒を助けて、教会の食事などの世話をするために選ばれた7人の中の一人と書かれているけれど、12使徒がヘブライ語を話す教会員たちの指導者であったのに対して、ステファノはギリシャ語を話す教会員たちの指導的立場にある人たちの内の一人だったようだ。
迫害
パウロ自身の手紙の中にも、キリスト教会に対する迫害について書かれている。
ガラテヤ 1:13 「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。」
フィリピ 3:5-6 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
呼び掛け
そんなサウロにイエスが現れた、と言うのが今日の箇所だ。使徒言行録の中にはこの時の話しが3回出てくる。
しかし突然天から光がサウロの周りを照らして、そこでイエスの声が聞こえたなんて、そんなことあるんだろうか。実際どんなことが起こったのかよくわからない。サウロに同行していた者は声は聞こえても姿は見えなかった、と書かれている。サウロ自身もその後目が見えなくなってしまっている。
天からサウロの周りだけに光が射すなんてことがあるのかどうかわからないけれど、サウロの心の中に強烈な光が射し込んだということ、そしてサウロの心の中にイエスの声が聞こえたということは事実なんだろうと思う。
しかしそれはサウロにとってはとんでもない出来事だ。自分が、こいつは偽物だ偽キリストだと思って、そう信じて迫害していたイエスが実は本当のキリストだったということを突きつけられたということになる。
ということは今までやってきたことがとんでもない間違いであったということを突きつけられたということだ。おまえらは間違っている、そんなことを続けることは許さない、続けるなら処刑する、といっていた自分の方が間違っていたと知らされたのだ。
律法を守ることに人生を掛けていたであろうサウロにとっては、それまでの人生を崩されるような事態だったに違いないと思う。
しかしサウロはもっと少し前から悩んでいたんじゃないかと思う。ステファノの処刑の時に立ち会っているが、その時に処刑する者たちに罪を負わせないでくださいと祈りながら処刑されたステファノの姿に衝撃を受けていたのだと思う。また迫害している教会の人たちの様子や、噂に聞くイエスの言葉や振る舞いに何か感じるものがあったのかもしれないと思う。引き付けられる何かを感じていたのだと思う。ひたすら律法を守るという生き方にどこか疑問を感じてもいたのかもしれない。
しかしいいなと思っても人間もなかなか変われない。イエスに何か魅力を感じたとしても、そうやすやすと自分の生き方を変えることはできなかったんじゃないか。イエスの言葉や振る舞いに魅力を感じる部分があったとしても、イエスをキリストだと認めることはそれまでの人生を否定することにもなりかねいないわけで、そうそう簡単に認められることではなかったのだろうと思う。案外気になって引き摺りこまれそうに思うから、そうならないように余計に頑張って否定してきていたり、邪念を打ち消すために余計に頑張ってキリスト教会を迫害していたのかもしれないと思う。
降参
そしてこの頃は心の中の葛藤が最高潮に達していたんじゃないか、いったいどっちが正しいのだ、イエスはただの異端者か、それともキリストなのか、自分は正しいのか、それとも間違っているのか、そんな思いに苦しんでいたんじゃないかと思う。そしてイエスがキリストかもしれないという気持ちを必死に押さえ込んでいた思いが、この日遂に決壊してしまった、それが今日の場面なのではないかと思う。
そんな苦しみの中でサウロはイエスの言葉を聞いたのではないか、そんなサウロの心の中にイエスの声が聞こえたんじゃないかなと思う。それまで一所懸命に否定して拒否してきたイエスの言葉を拒否しきれなくなって、もう降参ということになったのではないかと思う。
サウロは三日間目が見えなくなり食べも飲みもしなかったと書かれている。サウロは三日間何をどう考えたのだろうか。きっと俺の人生は一体何だったのか、今までしてきたことは何だったのかと考えたのだろう。それまで間違っていたということを受け止めることは相当に大変なことだったに違いないと思う。しかも自分が間違っていただけじゃ無くて、正しい人間を捕まえて痛めつけてきた、ひどい目に遭わせ処刑してきたわけだ。
言わばそれまでの人生を否定するようなことなのだ。あの声はイエスの声だったのか、何かの間違いだったのではないか、でもあれが本当にイエスの声ならば従うしかない、しかし一緒に教会を迫害していた者たちに対しても、そして教会の人達に対しても、今さらどんな顔をして生きていけばいいのか、と思ったんじゃないだろうか。そんないろんな思いに悩み苦しむ三日間だったんじゃないかと思う。
自分の人生をまるっきり方向転換するような大変な3日間だったのだろう。自分の人生を否定するようなことはしたくない、自分の間違いを認めたくないという思いとの闘いでもあったのだろうと思う。
神の命令だからといっても、はいそうですか、とはなかなか行かないのが現実だ。いろんな闘いがある。
方向転換
人間はそれまでの生き方を改めろと言われてもそうそうできるものではないと思う。しかしサウロは自分の疑問や自分の気持ちに正直に従ったということなんだろうと思う。そして最後には自分に語りかける神の言葉に正直に従ったのだろうと思う。
正直に生きると言うことは結構大変なことだ。とても大変なことだ。教会でも、全てのことに感謝しなさいなんて言われると、本当は感謝なんかしてないのに感謝しているような顔をしてしまうこともある。信じられないのに信じているような顔をしてしまったり、信じられない自分は駄目なんだと責めたりすることもある。こんなこと言ったら周りからどう思われるだろうかと思って本心を言わないなんてことも多い。でも信じられるときもあれば信じられないときもある、それが私たちの本当の姿なんじゃないかと思う。サウロって自分に正直になった、あるいはならされたのかもしれないけれど、そこで回心できたのだと思う。ファリサイ派の人たちの反応を気にしていたら回心なんて出来なかっただろう。
アナニア
アナニアはそんなサウロの所へ行けという命令を受ける。彼も困ったことだろう。サウロのところへ行って祈ってやれなんて言われて。実際、あいつはとんでもない奴ですよ、と答えている。でも彼はサウロのところへ出かけていく。
実はこの人こそが偉いのかもしれない。神がその人を選んだのだ、と言われたことに対して従っている。自分たちの命を狙っている者の所へ自分から出かけていくわけだ。
神が選んだ、神が立てた、ということだけでその相手を大事にするなんてことはなかなかできない。神に立てられていると言われても、あの人はここがだめだ、あそこがだめだ、何もしてくれない、なんて思う。そんな目で見ることが多い。神が選んだということよりも、その人の資質とか人間性の方に目を向けることが多い。そしてこの人は神に選ばれるべき人間ではない、と決めつけてしまうことが多いような気がする。
アナニアもサウロがとても神に選ばれた人間とは思えなかったようだ。けれどもアナニアは、どうしてあんな奴が、という思いを持ちつつ、神がサウロの所へ行けと言われた言葉に従った。自分の知っているサウロの人間性とか資質とか経歴とかいうようなものよりも、神の命令、神の選びを優先したということだろう。
いやだ、けれど
神の命令だから、と言ってもそうそう簡単に、そうですかと言えないことが多いと思う。聖書を見ても、神の命令に対してもしつこく抵抗する人がいっぱい登場する。やりたくないよと言った人たちばかりだ。
でもそんなやりたくないという思いを抱えつつ神の命令に従っていった、というか、やりたくないという思いと闘いつつ神の命令に従っていっているような気がする。
サウロの3日間も、自分の人生をまるっきり方向転換するような大変な3日間だったのだろう。自分の人生を否定するようなことはしたくない、という思いとの闘いでもあったのだろうと思う。
アナニアも、言わば宿敵サウロのために祈れと言われ、そんなことしたくない、と口にもしている。
神の命令だからといっても、はいそうですか、とはなかなか行かないのが現実だ。いろんな闘いがある。自分自身との闘いがある。
献金することだって闘いだ。このお金があれば、なんて思う。今までの献金額を計算したこともあった。
神に従うことは結構闘いなんだろうなと思う。でもそこにはきっと喜びがあるんだろうと思う。アナニアに祈ってもらうことがサウロはどれほど嬉しかっただろうかと思う。そしてサウロが福音を伝えることで、どれほど多くの人達が喜んだことだろうか。
ひとりじゃない
何故アナニアに祈るように命令したのだろうか。もう一度イエスが現れて、サウロの目を見えるようにするのではなく、わざわざアナニアに行かせたのはなぜなのだろう。
サウロに助けられることを経験させたのではないか。共に生きていく仲間がいることを分からせるためだったのではないかと思う。
神の命令は、私たちが共に生きていくための命令でもあるような気がする。
いやだ、やりたくないという思いが強い。そんなことできないという思いが強い。でももう少しじっくりと神の声、イエスの声を聞いていかないといけないなと思っている。