礼拝メッセージより
忠告
ある注解書によると、今日の箇所の15-18節はイエスが直接語ったことではないと書いてあった。というのも、ここに教会という言葉が出てくるけれども、教会はイエスが十字架で死なれたもっと後に出来たものであって、イエスが教会という言葉を語ることはないと思われる。それと、忠告を聞き入れない兄弟のことを異邦人か徴税人と同様に見なしなさいと言われているけれども、イエス自身がその異邦人や徴税人のところへ出掛けて行って、その人たちに神の愛を伝え、その人たちと共に生きたわけで、このような言い方をするとはおおよそ考えられないから。異邦人や徴税人を見下すような考えはユダヤ教的な発想だろうと思う。
そんなことから15-18節についてその注解書に「イエスが実際に言われたものではなく、後年、教会が温情と赦しだけによらずに、懲戒処分を規約、規則としなければならなかったときに、イエスが言われた何かの言葉を適用したのだと考えられる。確かにこの箇所は、イエスの言葉を正確に記録したとは思われないが、しかし、イエスの発言に由来していることは確かである。」と書いてあった。
教会は神の名の下に集まっているわけだけれど、やはり人の集まりであって、それは言うなれば罪人の集まり、罪人のことを出来損ないと言っていた牧師がいたけれど、教会は出来損ないの間違いを持った者の集まりであって、いろんな諍いや問題や間違いが起こる。そんな時にどう対処するのかということがここに書かれているようだ。最初は二人だけで忠告する、それでも駄目なときは二人か三人で忠告するようにということだ。「二人か三人の証人の口によって確定される」というのは、旧約聖書の申命記19:15にある「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」という言葉のことを言っているようだ。
それでも解決しない時には教会に申し出て、教会全体で対処しなさい、それでも忠告を聞き入れない人に対しては、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい、と言われている。どういうことなんだろうか。教会の忠告にも耳を貸さない人に対しては、教会の交わりから排除するようにということか。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれるとある。「つなぐ」は禁止することで、「解く」は許可することだと聖書教育に書いてあった。教会が天国の鍵を持っていて、ある人は入らせ、ある人は入らせないとしているようだ。果たしてそうなのか。
罪
そもそもここでいう罪とは何なのか。
18章23節以下にひとつのたとえが出てくる。1万タラントン借金している家来が、王に赦してもらったが、自分が貸している百デナリオンを赦さなかったため、そのことを知られて牢獄にいれられる、という話しだ。1万タラントンとは、今で言えば6千億円くらいのお金になるようだ。そして百デナリオンとは100万円位だろうか。数千億円を赦してもらったものが、その60万分の1の100万円を返さないことを赦さなかったという話しだ。6千億円なんてのは額が大きすぎて実感が湧かないので身近な額に換算すると、600万円の借金を赦して貰ったものが自分が貸した10円を赦さなかったということのようだ。
なんとひどい話しだという気がするが、実はこれが私たちの現実の姿かもしれない。そして15節に出てきた、罪を犯した者の一つの例がこのような、自分は赦されても人を赦さない者ということなのではないか、と思う。
21節では、ペトロが何回赦すべきでしょうか、7回でしょうかとイエスに問うている。イエスは7回どころか、7の70倍までも赦しなさい、と言われる。これはもちろん490回赦せばあとは赦さなくてもいい、ということではなく、無限に赦しなさいということだろう。
自分が赦しを受けた者として、あなたがたも罪にある者に忠告しなさいということだと思う。罪がない者が罪を犯した者に忠告しなさいということではなく、罪を赦された者として、赦された喜びを持つものとして、あなたも赦された者なのだからあなたも赦すようになりなさいということじゃないかと思う。
そうするとここで言う忠告とは、間違ったことのない者が、間違っている者の間違いを指摘するということではなくて、間違った経験のある者、間違いを持っている者が、今間違っている者にその間違いを知らせるというようなことなんだろうなと思う。
でも忠告って難しいなと思う。人の間違いを指摘するのって難しいし勇気もいる。忠告されるってのは気分の良いものじゃないから忠告したことで相手の機嫌を損ねるかもしれないし、逆ギレされるかもしれないし、それまでの人間関係が崩れるかもしれない。忠告することで相手が自分のことをどう思うかと心配したり、自分が悪者になりたくないという気持ちもあって、間違ってると分かりつつそのまま放っておくことが多いなあと思う。でも放っておいたために相手が余計に大変なことになってりするなんてこともあった。
相手との信頼関係がどれほどあるかということもあるけれど、相手のことをどれほど思っているか、本当に相手のことを心配しているか、どれほど相手のことを大事に思っているかどうかが問題なんだろうなと思う。
あんたのためを思って、って親が子どもに勝手に押しつけることも多いけれど、本当に相手のためを思って忠告するかどうかが大切なんだろうなと思う。自分が悪者になっても構わないという思いで忠告しないといけないのかなと思う。そう思えなくてほったらかしにすることが多いなあと思う。それは結局は嫌われたくないとか、いい顔をしていたいという、相手よりも自分を可愛がっているということなんだろうなと思う。
二人と三人
19節で、どんな願い事でも二人が心を一つにして求めるなら天の父はかなえてくださると言われる。また20節では、二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである、とも言われている。
二人または三人か。じゃあ四人以上の時はいないのかな、と屁理屈を言ってみる。
二人でもイエスの名によって集まるところにはイエスもその中にいるという。イエスの名によって集まるとはどういうことなんだろうか。それはきっとイエスの思いに寄り添って集まること、イエスの一番大事だと語った、神を愛し隣人を愛するという言葉の下に集まる、そんな愛を持って集まるということなんだろうと思う。そこにはイエスもいるということだと思う。
忠告するにしてもそんな愛を持って忠告する、あなたのためという言葉だけではなくというか、それは言葉にしてはいけないと思うけれど、でも相手のために自分が犠牲になってもいいという気持ちを持って忠告することが大事なのだと思う。
神に徹底的に愛され、徹底的に赦された者として集められている、それが教会なのだと思う。その愛と赦しの中にこそイエスはおられるのだ。そのイエスの愛を持って生きていきたいと思う。