礼拝メッセージより
しあわせって?
昔「幸せって何だっけ?何だっけ?」というコマーシャルがありました。
誰もが幸せであることを求めていると思うけれど、何が幸せなのかってのはあまり明確では無いように思います。何がどうなったら幸せになるのか、よくよく考えるとはっきりしません。
いろんなものをいっぱい持つことが幸せであるような漠然とした気持ちはあります。でも勿論幸せであるという基準があるわけではありません。お金も家も車もあって、そして家族がいて友だちがいることが幸せかな、なんて思いますが、じゃあどれくらい財産があって、どれくらい友だちがいれば幸せかなんて境目があるわけではありません。
あるいは、普段の生活では幸せだなんて思わないのに、病気になってその病気が治った時は、当たり前の生活が幸せだと思えるなんてこともあります。
そうすると幸せってのは、条件とか基準を満たせばなるものではなくて、自分が幸せだと思える時は幸せであって、結局は自分で決めることみたいだなあと思うようになりました。
そんなことを考えている時に、『しあわせはいつもじぶんのこころがきめる』という言葉を見て、同じようなことを考えている人がいるんだ、と思いました。それを言ってる人が相田みつをっていう有名な人だと知ったのがだいぶ後のことでした。
幸せだと思える事自体が幸せで、幸せだと思うことでなんか元気が出てくるような気がしています。
幸いである
今日の聖書は幸いであるという言葉が繰り返される箇所です。同じ内容の話しがルカによる福音書6章20節以下の所にも出てきます。マタイでは山上の説教となってますがルカでは平野の説教となっています。マタイではユダヤ人向けというか、ユダヤ教をよく知っている人向けということだと思いますが、神に近づくとか神からの大事な言葉を聞くのは大体山の上ということになっているみたいです。
ルカでは「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と書かれていて、マタイとルカではちょっと違うところがあります。マタイは「天の国はその人たちのものである」ですがルカでは「神の国はあなたがたのものである」と言われています。
そして一番大きな違いは、マタイにある『心の』というのがルカにはありません。ルカは貧しい人々は幸いであると言っています。
これについては、多くの学者は、ルカのテキストの方が元の形であっただろう、と言っています。すなわち、イエスの言われたのは、文字通り「貧しい人」だったというわけです。それをマタイは、「心の」というのを付け加えて精神化したというわけです。また、「今飢えている人たち」もマタイの方では、「義に飢えかわいている人たち」となっていて、「今泣いている人たち」も「悲しんでいる人たち」となっていて、どちらも精神的なことに変化しています。このようなことからもルカの方がもともとイエスが語った形に近いように思われます。
貧しい人たち、今飢えている人たち、今泣いている人たちが幸いだなんてあまりにも過激な言い方だったのでマタイはそれを精神的なことと捉えて過激さを和らげたんではないか、という話しも聞いたことがあります。
またマタイによる福音書に出てくる、柔和な人々、義に上渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、というのがルカによる福音書には出てきません。貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々が幸いであるということは納得しにくいのに対して、マタイによる福音書のように内面化した話というか、心の中の話しということになれば、誰にもあてはまるような気がします。あるいは当時のマタイが関係する教会のは文字通り貧しい人はあまりいなかったのかもしれないなあという気もします。
そうじゃない
しかし貧しい人々は幸いであるというのはすごく過激なというかびっくりするようなことだなと思います。何訳の分からんこと言ってるんだ、という気がします。
イエスは思いもよらぬことを言うことが度々あるように思います。貧しいこと、飢えていること、泣いていること、それは普通に考えると不幸せなことでしょう。誰もが不幸せな状態だと思うでしょう。当時イエスのこの言葉を聞いていた人達も、貧しくて飢えていて泣いている自分はなんて不幸せなんだ、と思っていたことでしょう。この不幸せな状態から助けてくれと思っていたことでしょう。貧しさから、飢えから、泣いている状態から救い出してくれること、それでこそ幸せになれる、誰もがそう思っていただろうし、神に対してそれを願い、イエスに対してもそれを期待していたんだろうと思います。
しかしイエスは、そうじゃない、貧しい人々は幸いだ、飢えている人々は幸いだ、泣いている人々は幸いだ、と言ったような気がしています。あんたたちは自分のことを不幸だ不幸だと言っている、そんなことはない、あんたたちは幸いなんだと言っているようです。
小さな一歩
イエスは、兎に角あんたたち幸せなんだよ、と言っているんじゃないでしょうか。全然幸せじゃない、こんなに貧しくて辛くて大変で、こんなの全然幸せじゃないと思っている私たちに向かってイエスは、いやあんたたち幸せなんだよと言われているのではないでしょうか。
お金もないし友達もいないし、夢も希望もないし、ここから抜け出す力もない、あるのは過去の失敗と後悔、将来の不安と心配ばかり、どうしてこんなに不幸なんだ、幸せなんてどこにもないじゃないかと思っている、そんな私たちに対しても、いや、違う、あなたは幸いなんだと叫んでいるような気がしています。
不幸だ不幸だと不幸をいっぱい数えて、こんな自分に未来はないと落ち込んでいる私たちに対して、イエスはそうじゃないあなたは幸いだ、あなたには未来があるんだ、神の国はあなたのものだし、私はあなたの味方だ、と言われているような気がします。俯いてしまっている私たちをイエスは必死に励ましているような気がしています。
不幸だと思う気持ちに押しつぶされてただ下を向いていてはいけない、不幸だと思って自分の境遇を呪う必要はない、あるいは不幸にしてしまったと自分を責めなくてもいい、不幸だという思いに負けないように、押しつぶされように私と一緒に生きて欲しい、わたしはここにいる、いつも一緒にいる、だからもう不幸じゃないんだ、イエスはそう言われているのではないでしょうか。
私たちはお金とか家とか家族とか友だちとか、目に見えるものを持つことが幸せと思いがちですが、そんなものが何もなくても生きる希望を持てることこそが幸せなのではないかと思います。神が共にいる、イエスが一緒にいる、どこにいても、どんなになっても、いつも一緒にいてくれている、そのことを知ること、それは決してなくならない幸せの素なのだろうと思います。
だからと言って不幸だと思っていた現実がすぐになくなるわけではありません。でもその厳しい現実の中で小さな一歩を踏み出そうかという元気がちょっと出てくるような気がしています。その小さな一歩かもしれませんが、きっとそれは確かな一歩になるに違いないと思います。だからこそイエスは私たちに向かっても幸いだと言ってくれているのだと思います。