礼拝メッセージより
死
今日はイースター並びに召天者記念礼拝です。召天者記念礼拝と言っても、亡くなった方を拝むことはしません。また亡くなった方のために祈る、冥福を祈ることもしません。浄土真宗でも亡くなった方は既に冥土にいるのだからそれを祈る必要はないから冥福を祈らないと聞いたことがありますがそれと似てる気がします。
でもテレビやラジオでは誰かが亡くなったという話しをする時にはほとんど最後に冥福をお祈りしますと言っていて、なんだか冥福を祈るというのはただの決まり文句みたいだなという気がしてます。
それはさておき、先に召された人たちはすでに神の下に召されているわけで、祈る必要がないと考えています。今日は先に召された方のために祈るわけではありませんが、先に召された方たちがかつて、慰められ癒され励まされ力付けられた、そんな聖書の言葉を聞くことでこの方たちを偲び、私たちも同じように慰められ励まされたらいいなと願っています。
ショック
イエスは十字架で処刑されて死んでしまいました。イエスの弟子たちはイエスが捕まってしまったときにみんな逃げてしまったと書かれています。
弟子たちはイエスの招きに応えて、仕事をやめて従っていたようです。どういう未来を思い描いて従っていたのかはよくはわかりませんが、自分の人生を掛けて従っていたようです。当時はやがてメシアと言われるキリストがやってきて、自分たちの国をかつてのダビデのように強い国にしてくれるという期待があったそうです。中にはイエスがそんな偉大な王になるというような期待をしていた弟子もいたみたいだですが、イエスに魅力を感じて人生を託してついてきていた弟子たちでした。
弟子たちは誰もが、これから明るい未来を想像しつつ、希望を持ってイエスに従っていただろうと思います。そんな弟子たちにとって、そのイエスの十字架の死は、あまりにも突然に未来が断ち切られたようなショックな出来事であったに違いないと思います。
しかし弟子たちは自分達の師匠が犯罪人として処刑されてしまい、自分達も犯罪人の仲間であるという危ない立場に立たされてしまいます。聖書には男の弟子たちは十字架を前にしてみんな逃げたと書かれています。自分の身のまわりに何が起こっているのか分からず、これから自分がどうすればいいのかも分からず、ただ絶望し逃げ出すしかなかったのでしょう。
ところが、そんな絶望的な状況であった弟子たちが、その後イエスこそがキリストであると堂々と伝え始めたと書かれています。その原動力が復活のイエスとの出会いだったということを聖書は伝えています。
復活
今日は教会の暦ではイースター、復活節となっています。どうして今日なのかというのは、紀元325年というから今から1700年位前のニカイア公会議という会議で、春分の日の後の満月の次の日曜日ということに決まったそうで、一応それに倣っていて、それで毎年日付が変わってしまっています。
しかし聖書でいう復活ってどういうことなんでしょうか。聖書には墓の中に寝かされていたイエスが生き返り、むくむくと起き上がってきたというようなことを書いてあって、僕もかつては単純にそうなんだろうなと思ってました。
でもよく見ると聖書にはいろんなことが書かれていました。その後イエスが食事をしたとか、十字架の後を触ってみろと言って肉体があるようなことが書かれていたりするかと思うと、戸締まりをしている家に入ってきたり、食事中に急に消えてみたりというふうに肉体を持たない、まるで幽霊でもあるかのような感じで書かれていたりもします。いろんなことが書かれていて、一体どれが本当なのか、実際復活ってどういうことなんだろうとずっと思っていますがなかなかはっきりしません。
復活に関する本を読んでもなかなかはっきりしませんでした。少し前に『私にとって「復活」とは』という本を買いました。本のタイトルに「復活とは」とあるから、これなら復活とはこういうことだと書いてあるかもしれないと期待して買って読みました。でもそれを読んでも事実はこうです、イエスの復活はこういうことでした、なんて説明はありませんでした。
読み方が悪いのかと思って何回か読み直してみてもやっぱりわかりませんでした。ある時『私にとって「復活」とは』とタイトルにあるように、どうも復活とはその人その人にとって違ってくるものであるみたいだということに気が付きました。
つまり復活とはこういうことですよ、と物理現象のように万人がみんな共通して認識したり理解したりできるようなことではないらしいということです。つまり、むくむくと墓から起き上がって、誰もが目に見えるようにみんなの前に現れたということではないようだと気が付きました。
再会
今日の聖書の箇所では天使が現れて、復活のイエスとガリラヤで会えると告げています。ガリラヤとはイエスと弟子たちが出会った場所、かつてイエスと生活を共にし、イエスの振る舞いを見てイエスの言葉を聞いていた場所です。そのガリラヤでまた会えるというのは、かつてのイエスの姿を思い出すように、かつて聞いたイエスの言葉をもう一度聞き直し噛みしめるように、ということを伝えているのではないかと聞いたことがありますが、そうなんだろうなという気がします。
イエスの十字架の死を目の当たりにして、打ちのめされて逃げ出した弟子たちは、大きなショックの中でかつてのイエスを思い出していたに違いないと思います。心の中でイエスの姿を思い描き、イエスの声をもう一度聞き直したのだろうと思います。そして心の中で再びイエスと出会った、それが復活のイエスとの出会いだったのではないかなと思います。
心の中だけではなく、実際にイエスが見えたのかもしれないとも思います。
もうだいぶ前ですが、テレビで東北の震災の話しをしていました。その中に津波で家族を亡くしたという人が出ていて、詳しいことは覚えていませんが、津波がくるまで一緒にいた母親を波にさらわれてしまった人と、何かの都合で助けに行けなくて子どもを亡くした人が出ていました。その人たちは家族を助けられなかった自分を責めて、その重荷にずっと苦しめられていたそうです。
しかし母親を波にさらわれた人は、夢の中にいつもの穏やかな顔をした母親が出て来たという話しをしていました。子どもを亡くした人は、昼間起きている時に部屋の中に子どもが現れてにっこり笑った姿を見たと言っていました。多分幻なのだろうと思いますが、そのことがあってからそれまでの重荷がずっと軽くなったと言っていました。夢なのか幻なのか、それとも霊なのか、それが何だったのかそんなことは大した問題では無くて、その姿を目にしたことこそが大事だったわけです。
イエスの十字架の死を経験して、そこから逃げだし絶望し打ちひしがれていた弟子たちが、やがてイエスこそキリストであると堂々と伝え始めたのは、津波で家族を亡くした人たちと同じような仕方か、あるいはもっと強烈に、それが夢か幻か、どういう形でかはよく分かりませんが、イエスの姿を見た、イエスの声を聞いたからだろうと思います。そしてそれこそが復活のイエスとの出会いだったのではないかと思います。物理的な出会いではなく、心の中での出会いというようなものだったのだろうと思っています。
イエスは病気や障害を持つ者、社会から除け者にされ差別されてきた人達、生きることに希望を持てないで絶望しているような人達のところへ出掛けていき、寄り添ってきました。そんな人達の絶望や悩みや嘆き、そんなものを含めてその人そのものを受け止めてきました。そうすることで彼らには生きる力が与えられ希望が与えられてきました。
弟子たちはかつては、そんな苦しみ絶望する人達に接するイエスの姿を見てきていました。しかしそのイエスの十字架の死を経験して、今度は自分達が未来を断ち切られて絶望する側になってしまいました。あわてて逃げだしうろたえていた弟子たちは、やがてかつてのイエスの姿、イエスの語った言葉を少しずつ思い出してきたのだと思います。弟子たちは自分達が苦しい状況になって、改めてイエスの姿を見つめ、イエスの言葉を改めて聞くことになったのだと思います。他の誰かに語りかけている時には分からなかったイエスの言葉を自分に語りかける言葉として聞いたのだと思います。そしてそこ初めてその意味が分かったのだろうと思います。そこで始めてイエスのすごさが分かったんだろうと思います。
弟子たちは心の中で改めて見たイエスの姿に、改めて聞いたイエスの言葉に、癒され慰められ力を与えられて、今度はイエスを堂々と伝える者となっていったのだろうと思います。それこそが復活のイエスとの出会いだったのだと思います。
真後ろ
私たちは肉体の目でイエスを見たり、この耳でイエスの声を聞くことはできそうもありません。けれども聖書を通して私たちに伝えられているイエスの姿を心の目で見て、イエスの言葉を心の耳で聞くことができます。そういう仕方で私たちも復活のイエスと出会うことができます。
先に召された方たちも、きっとそういう仕方でイエスと出会い、イエスの声を聞き、そのイエスに力付けられ慰められて生きてきたことと思います。
先日から礼拝の中で何度かアイヘンバーグの木版画「炊き出しの列に並ぶイエス」の話しをしています。炊き出しに並ぶというのはどういう気持ちなのでしょうか。自分がいつそういう立場になるか分からないなあという気持ちがありますが、そうなったとしたら恥ずかしい惨めな情けない気持ちになりそうだなと思います。
でも自分がどんな惨めな情けない状況になったとしても、そこにもイエスが居てくれていると教えてもらったようですごく嬉しい気持ちでこの版画を見ています。イエスは自分の真後ろにいてくれているような気がしています。真後ろにいるから自分には見えないし気付かないのかなという気がしています。自分には見えなくても、気付いてなくても、イエスはいつもすぐ真後ろにいてくれているような気がしています。
先に召された方たちも、肉体の目でイエスを見たわけではないけれども、イエスの言葉に触れ、力付けられ慰められて生きてきたのでしょう。つまり自分に語りかける言葉としてイエスの言葉を聞いてきたのでしょう。
私たちも先人たちが出会った復活のイエスと出会いたいと思います。この方たちを力付け慰めたイエスの言葉を、私たちもしっかりと聞いていきたいと思います。