礼拝メッセージより
終末
マタイによる福音書の24章から終末に関する話しが続いている。世の終わりにどんなことが起こるかというような話しが、いろいろなたとえ話として出てくる。その中にこんな言葉がある。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(24:13)、「しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」(24:22)、「人の子は、大きなラッパの音を合図にそお天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(24:31)、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(24:40-41)、そして45節以下では忠実な僕と悪い僕の話があって、悪い僕を厳しく罰するとある。
終末には選ばれる者と選ばれない者、あるいは忠実な僕と悪い僕というように、人間が分けられると話しになっているようだ。そしてそれに続くのが今日の「十人のおとめ」のたとえという話しで、ここでも5人ずつに分けられるという話しになっている。
結婚式
当時の婚宴は二つの祝宴から成り立っていたそうだ。まず花婿が花嫁の家に来て、前祝いとでも言うべき祝宴が行われる。続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われるそうだ。そこで花婿がまず花嫁の家に向かって来たときに迎えに出る役割を担っていたのがこの十人のおとめということだ。時には町外れにまで出て花婿を迎えることもあるそうだ。
この地方では結婚を盛大に祝って、町中の人が総出でお祝いするそうだ。花婿は花嫁を迎えに行く時に、途中でなるべく多くの人達から祝福してもらうために遠回りをして行ったらしい。時には不意討ちを狙って真夜中になることもあるそうだが、そんな時は先に使者がやってきて「さあ、花婿だ」と知らせたそうだ。そして花婿が到着したら戸がしまり、遅れてきた人は参列できないということになっていたそうだ。
今日のたとえでは、出迎え役のおとめたちは夜にともし火を用意して待っていたが、10人のうち5人は壺に油を入れて持っていたが5人は予備の油を持っていなかった、そこで急遽店に買いに行っている間に花婿が到着して宴会に参加できなかったという話しだ。
脅し?
今日の箇所の少し前から終末、キリストの再臨の話しが続いている。その中での譬えということで、この箇所も再臨のことのようだ。締めくくりの言葉が、その時はいつなのか分からないから目を覚ましていなさい、ということになっていて、目を覚ましていないと天の国に入れて貰えないぞと言っているようでちょっと脅しみたいなだなという気がする。
しかし今日の話しの流れからいうと、「だから、目を覚ましていなさい」というのはちょっとおかしいなと思う。「だから、油を用意していなさい」というべきじゃないのかな。「だから、目を覚ましていなさい」という言葉は24:42節にもあって、終末を待つときの心構えとしての決まり文句みたいなものだったのかなという気もする。
ではそもそも目を覚ましているとはどういうことなのか。今日の話では油を用意しておくということのようだけれど、その油とは何のことなのかという話しになる。いろんな人の説教を見ていると、それは信仰だとか聖霊だとかいう解釈がある、ということだそうだ。どれほど信じているかなんて問われても全く自信がない。聖霊をもっているかなんて聞かれてももっと分からない。信仰にしても聖霊にしても、私はちゃんと持っているから大丈夫、なんて言える人いるんだろうか。
世の終わりにキリストが再臨する時に、信仰や聖霊をちゃんと持っていないとと締め出されると言われたら、まるで恐怖しかないと思う。
しかしここはそういう話しなんだろうか。
ある注解書には、「この話しは直接にはユダヤ人に向けられたものである。ユダヤ人は選民であり、かれらの歴史は神の子を迎える準備のためのものであった。かれらは、イエスが来られたときに迎え入れる準備ができているはずであったのに、その準備をしないばかりか、神の子を締め出してしまった。ここは、用意を怠ったユダヤ人の悲劇が描かれている」と書いてあった。
この注解書の解釈によると、このたとえ話は終末の再臨の時の話しというよりも、すでにキリストがやってきているのに、そのことを認められないで除け者にして処刑までしてしまったユダヤ人のことを言っているということになる。つまり花婿はもう来た、キリストは来た、しかし婚宴に入れないでいるユダヤ人たちがいる、キリストの到来を喜べない人がいる、ということを告げているということになる。
そうすると、このたとえは将来キリストの再臨がいつあってもいいように備えよというよりも、もうすでにキリストは来ている、花婿は来ている、あなたたちはそれをどう迎えるのか、この福音書はそのことを私たちに問いかけているような気がしている。
一緒に喜ぼう
このたとえが面白いのは、天の国が婚礼の宴に譬えられていることだと思う。勝手な解釈だけれど、天の国は祝宴のようなものだということかなと思う。花婿が来ると、つまりキリストが来ると祝宴に招かれる、天の国とはそういうものだということだ。
もうすでにキリストは来ている、だからその祝宴から締め出されるようなことにならないように、天の国はもう今ここにある、だから入り損ねることのないようにということだろう。そして天の国とは、なんとかして一緒に喜び祝いたいと思うような、そんなところなのだということを伝えているのではないかと思う。
そして今私たちはまさに「花婿だ、迎えに出なさい」と声を掛けられているということなのではないかと思う。イエスがやってきた、一緒に喜んでほしい、一緒に喜ぼう、と言われているということではないか。
壺の油を用意していない締め出すぞ、と脅しのようなことを言っているけれど、それは何としても一緒に来て欲しい、一緒に居て欲しい、一緒に喜んで欲しいという熱い願いの裏返しなのではないかと勝手に想像している。
キリストがやってくる時をあなたたちは知らなかった。どういう姿でやってくるかも知らなかった。あなたたちが知らなかったその時はもうやってきたのだ、あなたたちが知らなかったキリストの姿がそこにある、だからしっかり目を覚まして見なさい、しっかり目を見開いてイエスを見なさい、そう言われているんじゃないだろうか。