礼拝メッセージより
入城
今日の箇所はイエスがエルサレムへやって来たときの話し。エルサレム入城というような言い方をすることもある。エルサレムの城壁の中へ入っていくということだろう。私たちの教会では殊更こだわりはないけれど、教会暦だとイースターの前の日曜日を棕櫚の主日とか枝の主日とか言うそうで、それが丁度今日の箇所の出来事にあたるようだ。
今日の話しは四つの福音書全部に書かれている。棕櫚の主日というように、群衆が棕櫚の葉っぱを道にしいて迎えたようなイメージがあるけれど、マタイの福音書では棕櫚とは書かれてなくて木の枝を切って道に敷いたとあるだけ。棕櫚とあるのはヨハネの福音書だけみたい。しかも新共同訳ではなつめやしとなっているみたい。ちなみにマルコでは野原から葉の付いた枝を切ってきて敷いたとあるけれど、マタイでは葉っぱがなくなって枝だけになっていて、ルカでは枝もなくなって道に敷いたのは服だけになっていて、ヨハネではなつめやしの枝を持って迎えに出たとあるだけで、道に何かを敷いたとも書いてない。福音書を比べるとなかなか面白い。
子ろば
もうひとつ面白いというか不思議なのがイエスが乗ってきたというろばのことだ。他の福音書ではただ子ろばとかろばの子と書いてあって1頭しか連れて来てないみたいだけれど、マタイの福音書ではろばと子ろばの2頭が登場する。イエスは一体どっちに乗ったのかという感じ。
しかしどうしてイエスはろばに乗ったのか。旧約聖書の規定では、すべての家畜の初子、つまり最初の子は神へのささげ物としなければならない、ということになっていた。しかし、ろばの子は例外だった。ろばの子はささげなくてもよかった。(「ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。」 出エジプト記13:13 )
ろばというのは、ささげるものとしても役に立たない動物だということだったのかもしれない。
イエスはそんなろばに乗ってエルサレムに入っていった。普通新しく権力者になるものは馬に乗って都へ入っていった。戦争に勝って、相手を征服したときには、馬に乗って相手の都へ入っていった。そういう風に馬は権力の象徴であった。また実際軍事力でもあった。
旧約聖書の箴言21:31に「戦いの日のために馬が備えられるが、救いは主による」という言葉がある。戦うためには、普通人間は馬の準備をする。支配者はこんなに強いんだということ、またこんなに軍事力があるんだということを見せつけるためにも馬でやってくる。
しかしイエスは子ろばに乗ってエルサレムにやってきた。ろばは戦いのためには役にも立たない。戦いではなく人間が生きていくために役に立つ動物。日常の生活のために役に立つ動物だった。かっこいい目立つ仕事ではなく、いわば雑用ばかりさせられるような動物だったようだ。その雑用係の動物に乗ってイエスはエルサレムへと入っていった。
誤解
群衆は上着を道にしき、葉のついた枝を敷いてイエスの道を飾った。そして「ホサナ」と言った。これはもともとは「お助け下さい」、「今、救ってください」と言うような意味があったそうだが、その当時には王を迎える言葉としての決まり文句のようになっていたらしい。
群衆の叫びは、イスラエルの王の到来を待ち望む叫び、かつての強国、ダビデの国をもう一度、という意味を込めての叫びだったのかもしれない。
イエスは彼らの心とはかけ離れたところを小さなろばに乗って進んでいった。自分のことを理解していない者たちの中を進んで行かれた。人々が自分に対して栄光の王を期待している、人々はとんでもない誤解をしている、見当違いの期待をしている、その中をイエスは十字架へ向かって進んでいたのだ。そんな何も分かっていない人間の真ん中を通って行かれる。
イエスの気持ちなど何も分かっていない私たちの間を通って行かれる。私たちの間を通って十字架へと進んで行かれるのだ。
イエスがエルサレムに入っていったとき、群衆の声を聞いたとき、どんな気持ちだったのだろう。自分に対して見当違いの期待を抱いている、その声を聞きながらイエスはどう思ったのだろうか。俺はそんな王じゃない、お前達は間違っている、と言いたくなかったのだろうか。
イエスは、お前達は間違ってると言うわけではなかった。しかし彼らの真ん中を黙々と進んでいく。
人の間違いも無理解も自分勝手も、みんな受け止めていたということなのではないかと思う。人の罪も失敗も全部受け止め、全てを包み込んで、巻き込んで黙々と進んでいっているかのようだ。
みすぼらしい
イエスはろばに乗って進んで行く。馬に乗って格好良くではなく、ろばに乗って、弱くみすぼらしい姿で進んで行く。
PCR検査を受けた朝の、心の土台が揺すぶられるような、置き所がないような、落ち着かない気持ちが時々甦ってくる。牧師なんだなら、信仰持ってるんだから、何があっても挫けずに、不安にも負けないで、いつも元気でいたい、そんな立派な牧師、格好いい信仰者でいたいと思うけれど、実体は全然そんなことはない、というか全く逆だなと思う。ちょっと上手くいかないことがあったり、ちょっと面倒なことが起こると、すぐ動揺するし、この先どうなるんだろうかと心配ばかりしている。
そんなだらしない、みずぼらしい自分を自分で卑下することも多いけれど、しかしイエスは馬に乗って力を見せつけて、また力を見せつけてやってきたわけではなかった。ろばに乗って、無力なみずぼらし姿でやってきた。それは無力なみすぼらしい格好悪い私たちの側にいる、そんな私たちを迎えるためだったんじゃないかという気がしてきている。
良い良い、お前はそれでいい、力がなくてもいい、みすぼらしくていい、そんなのは問題じゃない、自分をみすぼらしくて駄目だと思っている、そのお前自身が大切なんだ、大好きなんだ、私はお前の味方だ、イエスは私たちにそう告げてくれている、身をもってそのことを私たちに示してくれているのだという気がしている。
ちょっとしたことに動揺し、心配し、何も手につかなくなってしまう、そんな弱い無力な人間の側にいる、そんな人間と一緒にいる、イエスはろばに乗ってそのことを示してくれたんじゃないだろうか。