礼拝メッセージより
人々は?
「フィリポ・カイサリア」 ガリラヤ湖のはるか北方。ヨルダン川の水源近く。ヘルモン山のふもと。今のゴラン高原。イエスの活動した中ではエルサレムから一番遠い所。そこには、ヘレニズム時代からパン神の神殿があり、またBC20年に、ヘロデ大王が建てた、総大理石のローマ皇帝崇拝のための神殿もあった。ローマの神々のひしめく場所だったようだ。
イエスは「人々は私をだれと言っているか。」と弟子たちに聞く。
弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者のひとり」と答えた。
領主ヘロデはヨハネの首をはねさせたが、その後イエスの評判を聞き、ヨハネが生き返ったから奇跡を行う力があると思っていた、ということが14章に書かれている。は処刑されて殺されてしまっていた。
エリヤは旧約聖書にも登場する預言者で、今でもユダヤ人の評価は高く、過越の祭りのときにはひとつのいすを「エリヤの椅子」として空席として、エリヤの再来を期待するそうだ。ということはエリヤの再来と言う人たちからは、イエスはかなり評価されていたということになる。エレミヤだという人もいたそうで、かつての預言者と同じような偉大な人がやってきたという評価もあったらしい。国が傾いたり、なくなったりしたときに登場した預言者がまた現れて、ローマ帝国に支配されている国を、もう一度強い立派な国に建て直してくれるということを期待する空気があったようだ。
あなたがたは?
イエスはさらに質問する。「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」。メシアとはヘブライ語で、それをギリシャ語に訳すとキリスト、救い主のことだ。
鍵
これに対してイエスは、あなたは幸いだ、あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ、という。イエスのことをキリストだと分からせた、信じるようにさせた、そう告白させたのは天の父である神なのだという。つまりペトロが自分で判断した結果、イエスのことをキリストだと判断したのではなく、イエスのことをあまり分かっていない、ほとんど理解もしていない、けれどもキリストだと信じるようにしてくれたのは神自身なのだというだの。
そしてその上で、ペトロに向かって、あなたの上に教会を建てる、天の国の鍵を授ける、なんてことを言う。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる、地上で解くことは天上でも解かれるというのだ。
つなぐというのは禁じることで解くとは赦すことで、あなたが地上で禁じることは神も禁じる、地上で許すことは神も許すという意味なんだそうだ。
あるいはつなぐというのは閉ざすことで、解くとは開くということだそうで、つまり天の国を閉ざしたり開いたりする鍵をペトロに授ける、ということだという解釈もあるようだ。いずれにしてもそんな重要な鍵を授けるということなのだろう。なんともすごい話しだ。
イエスはその後、これから自分はエルサレムへ行くこと、そこで処刑され三日目に復活するということを弟子たちに打ち明け始めた。ところがペトロがイエスをわきへ連れていっていさめはじめたというのだ。
ペトロは何と言ったのだろうか。「メシアが殺されるなんて、そんなことを言っちゃあいけませんよ」、「メシアが殺されたらイスラエルを再建できないじゃないですか」なんてことを言ったのかなと思う。
それに対してイエスはペトロに「サタンよ、引き下がれ。」と言ったというのだ。
天の国の鍵を授けるなんて言われたペトロだったのに、今度はサタンよ、悪魔よと言われてしまっている。
「あなたはメシア、生ける神の子です。」と言うのが試験の解答ならば、正解ということなんだろう。満点かもしれない。けれど試験の点数がいいからと言っても、そのことがよく分かっているとは限らない。クイズで小説家の作品名は答えられるけれど、内容は全然知らないなんてことと似ている。
やがてメシアが来てくれるということは当時はみんなが知っていたようだ。いつかメシアが来て、世を改めてくれる、と思っていた。しかしそのメシアは王として、政治的な王として来て、列強の支配から自分たちの国を解放してくれる者、そして強力な国にしてくれると思っていたらしい。
ペトロもそう思っていたのかもしれない。イエスから、あなたはわたしを何者だと言うのかと問われて、メシアですとは言ったけれど、イエスのこともよく理解して言ったわけではなかったようだ。逆にペトロはイエスに対して、自分の思い描いているメシア、キリストであって欲しいというような願いのようなもの、あなたこそ自分達の国を強くしてくれるメシアなんですよ、というような気持ちがあったのだろうと思う。
ところがイエスはそんな何も理解していないようなペトロに、「あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたということになる。
イエスの真の姿も全然よく分かっていないと思われるペトロの上に教会を立てる、という勿体ないようなことまで言われている。それでいいのかな、なんて思う。
ペトロがイエスの本当の姿を知ったのは、多分イエスの十字架と復活を経験してからなのだろう。
あなたは?
ペトロの告白は私たちがバプテスマを受けるときの信仰告白に似ている。私たちもイエスのすべてを知らない。本当はほんの一部しか知らないのかもしれない。でも、少しを知った所から信仰は始まっている。ただイエスがキリストであることを知ったところから、そう信じた所から始まっているのだろう。
コリントの信徒への手紙二12:3でも、聖霊によらなければ、だれもイエスを主であるとは言えない、と書かれている。イエスをキリストである、救い主であると信じるところとは、神によってそう信じるようにしてもらった、そこから信仰は始まっている。私たちはバプテスマの時だけではなく、今でも聖霊によって信じさせてもらっている、神の力によって神とつながらせてもらっている、というか私たちが神をつかまえているんじゃなくて、神につかまえてもらっているということだ。
イエスのすごさは、ペトロをサタンと呼んだけれど、ペトロの上に教会を建て、天の国の鍵を授けると言ったことを撤回しないことだ。
ただ
私たちもイエスについて知らないことがいっぱいだ。私たちが失敗したり挫折したりする、そんなことを通して、そこでイエスを見つめることで、そこでイエスに聞いていくことで少しずつイエスを知っていく、そこにキリスト、救い主、助け主の本当の姿が見えてくるのだろう。
誰かから聞かされたキリストの姿ではなく、自分で勝手に思い描いた姿ではなく、ただイエスを見つめなさい、ただイエスに聞きなさい、そこにキリストがいる、それこそがメシア、キリストの姿なのだ、そう言われているような気がする。
自分を背負って
それから弟子たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。・・・」と言っている。
自分の命を救いたいと思う者はそれを失うとか、ちょっと分かりにくい厳しいような話しになっている。これはマタイ教団の信仰告白だろうという人がいたけれど、十字架という言葉が出てくることからも、イエスの十字架を経験した人の言葉のような気がする。当時はイエスをキリストと信じることは迫害に遭うことでもあったようだ。
迫害がある中でどうして信じるのかなんてことを考えると、やっぱり迫害があっても迫害にまさる喜びとか安心とか希望があるということなんだろうと思う。しかしイエスを信じるということは迫害などの苦しみに遭うことでもあるということを伝えているのだと思う。
十字架を背負うというのはどういうことなんだろうかと考えていた。十字架ってなんだろうかって。そんな時にこの言葉を見つけた。
「変えることのできないものを受け入れることを学ぶ人は幸いだ。」
(フリードリヒ・フォン・シラー/ドイツの詩人・劇作家)
福音書がここで言いたいこととは違うのかもしれないけれど、十字架って変えることのできないもの、かなと思った。誰もが変えられないものを抱えて生きている。顔かたちだってそうそう変えられない。体重はある程度変えられるけれど身長なんてなかなか変えられない。また自分の性格も早々変えられるものじゃない。何より過去は変えようがない。
人間はそんな変えられないものをいっぱい抱えて生きている。将来のことをうじうじ悩む心配症なんてなくなって欲しいと思うし、人が自分のことをどう思っているなんてことをやたらと気にする性格も変えたいと思うし、なんで俺はこんなに駄目なんだと、何かやらかすたびに落ち込む性格も変えたいと思う。あの時あんなことをしてしまったとか、あの時あれもできなかったこれもできなかった、そんな苦しい過去も消し去りたいと思う。
でも変えたいとか無くしたいとか思うのに、変えられなかったり無くせないそんなものをいっぱい抱えて生きている。また新しい別の自分へと変えてくれることを神に対しても祈り願ったりしている。自分の嫌な部分を無くして、弱い部分を無くして、新たな自分へと変えて欲しいと願っている。
しかしイエスは、嫌な部分も全部持ってついてきなさい、自分の全てを背負って従いなさい、あなたの全てを受け止めたい、だからあなたは自分の全てを背負ってわたしに従いなさい、あなたの全てが大事なのだ、あなたが捨てたいと思っている、それも含めてあなたが大事なのだ、そう言われているような気がしている。