礼拝メッセージより
神か?
イエスは神なのか、それともただの人間なのか、という議論がある。イエスは人であり神であると聞かされてきて、深く考えずにそう思うべきという風に思っていた。けど最近は、神であるかないかという明確な基準を僕自身は持ってないなと思う。というかイエスが神であるかどうかと判断できるほど神というものを知っていない、分かっていないなあと思った。神かどうかと問う時、自分が勝手に持っている神という枠にイエスがはまるのかどうかという見方をしていたように思う。でもそれは何かおかしい見方だなと思うようになっている。
戸惑い
今日の聖書には洗礼者ヨハネが登場する。かつてイエスは洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた。ヨハネはイエスの先生であったようだ。しかしそのヨハネはガリラヤの領主ヘロデを批判して捕らえられた。
ヨハネはその牢の中で自分の弟子からイエスのことを聞いたのだろう。そこでイエスのもとへ弟子たちを送って、来たるべき方はあなたなのかと尋ねさせたという話しだ。
ヨハネは律法を守り、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと言い、罪の赦しを得させるバプテスマを受けるようにと言っていた。そして自分の後にメシアが現れると言っていた。イエスがバプテスマを受けたときには、自分はその方のくつにひもを解く値打ちもないと言っていた。
ヨハネにとってメシアは、強い力を持って世を裁く、悪者を懲らしめ世の中から不信仰な者を一掃する、そんなメシアを期待していたようだ。だから裁かれないように悔い改めよと言っていたわけだ。
しかしイエスはやがて裁かれるであろう罪人のところへ出向き、貧しい人達を憐れんでいた。ヨハネはイエスの評判を聞き、自分でもイエスに魅力を感じていたのかもしれないけれど、しかしそれは自分の思い描いていたメシア像、キリスト像とは違っていた。
問い
そこでヨハネはイエスのもとに自分の弟子を派遣してイエスに問いかける。来るべき方はあなたなのですか、と。
イエスはその問いには肯定も否定もしない。そうだとも、違うとも言わない。ただヨハネの弟子たちに、自分で見聞きしたことを、つまりイエスの周りで起こっている出来事を伝えなさいと言った。それは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」そのことをヨハネに伝えなさい、と言うのみだ。そして「わたしにつまずかない人は幸いである」とも。
このイエスの答えは、イザヤ書にある言葉「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」(イザヤ書35:5-6)のようだ。
ヨハネはイエスが来たるべき方なのかどうか、メシアなのかキリストなのかどうかを聞こうとした。メシアかどうかを判断したかったわけだ。しかしイエスはどっちとも言わず、自分のまわりに起こっている現実を知るようにと言った。
イエスはヨハネの弟子達に対して、俺がメシアだ、どうしてそんなことも分からないのか、ちゃんとヨハネに伝えておけ、とは言わなかった。そうではなく自分のことをじっくり見るように、そこで起きていることをしっかり見聞きするようにと言う。
メシアだったら従おうとか、メシアじゃないなら従わないというように、メシアという称号が付くかどうかで判断してほしくなかったんだろうと思う。そうじゃなく生身の自分を知ってほしい、生身の自分と出会って欲しい、イエスはそう願っているんじゃないだろうか。だから自分はメシアだとも、メシアじゃないとも言わなかったのじゃないだろうか。
大きい者
その後イエスはヨハネについて語る。ヨハネのことを女で産んだ者のうち最も大きい者だと言う。彼は律法をきっちりと守ったようだ。それはファリサイ派の人たちからも憎まれ口を叩かれるほどのものだったようだ。また彼と弟子達は政治的に影響を及ぼすよな集団ともなっていたらしい。
しかしそのヨハネも、神の国で最も小さい者でも彼よりは偉大である、と言われる。この世ではヨハネよりも立派な者はいない。がしかし神の国に入れられるとそのヨハネよりも大きい者となるということのようだ。この世ではいろんな業績、立派さ、が人の評価の基準となる。しかし神の国ではそんなこの世の基準ではない新しい基準があるということだろう。業績や立派さということに関係なく、誰もが大事にされる、誰もが大きい者とされる、そこが神の国なのだということかなと思う。
非難
イエスのまわりにはヨハネ以外にもイエスの事をどう受け止めればいいのか分からない人達がいたようだ。彼らはヨハネのことを、「あれは悪霊に取り憑かれている」と言い、イエスのことを「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言っていたようだ。
どんな人に対しても批判しようと思えば出来てしまう。どんな偉い人に対しても文句をつけようと思えばできてしまう。
ヨハネが禁欲的であれば悪霊につかれたといい、イエスが自由に振る舞えば大食漢で大酒のみだという。人を批判することで自分が偉い人間になったように思えるし、批判することは結構良い気分になれる。
どんなすばらしいことが起こっても、どんな神業が起こっても、非難の対象にできてしまう。
今の時代がそれだ、とイエスはいった。笛を吹いたのに踊ってくれない、葬式の歌を歌ったのに泣いてくれない、そんな時代だという。そして人の文句ばかりをいう。笛を吹いたのに、葬式の歌を歌ったのに真剣に聞いてくれないという。聞いて感動してくれない。ただ非難するだけただ批評するだけ。
生のイエス
神の出来事が起こっている、神が招いている、なのに非難をするばかりでいる。自分に語りかけられた言葉に対してもそれを非難の対象にしてしまうことがある。それが私たちの姿でもあるのかもしれない。
自分に語りかけられた言葉も心の中に入れていないということだろうか。これは良い言葉だ、実にすばらしいと評価したとしても、もしその言葉が心に入っていなければ感動はないだろう。どんなにいいワインも、その良さの説明をいくら聞いても、飲まなければ酔えない、なんて話しを聞いたことがある。どんなに美味しいと聞かされた料理でも食べなければ味わえない、感動もできない。
エレミヤ書15:16にこんな言葉がある。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。」
イエスの言葉もきっと同じだろう。それを食べて味わわなければ身に付かない。もっと食べる必要があるのではないか。イエスの言葉を食べるとは、イエスの言葉を通して生(なま)のイエスと出会う、生のイエスの言葉を聞くということだと思う。メシアというパックに入っているイエスではなく、或いは神というパックに入っているイエスではなく、生のイエスと出会い生のイエスの言葉を聞くこと、それが大切なことなんだろうと思う。
イエスは生身の自分を見て欲しい、生身の自分と出会って欲しいと言っているのではないかと思う。メシアという枠にはまるかどうか、あるいは神という枠にはまるかどうか、そんなことで自分を判断しようとするのではなく、ありのままの自分の姿、ありのままの言葉や行いを見て欲しい、つまりありのままの生(なま)の自分と出会ってほしい、そう願っているのではないかと思う。
イエスが関わっていた人達のことがここで書かれている。それは目の見えない人、足の不自由な人、らい病を患っている人、耳の聞こえない人、死者、貧しい人、イエスはそんな人達と関わり、そんな人達と生きてきたということだ。
罪人だと言われ、穢れていると言われ、社会から除け者にされ、近寄るな、穢らわしい、役立たずと言われていた人達だ。イエスはそんな人達をいやしてきたと書かれている。イエスがそんな人達を大切にし、いたわり、受け止めていたということだろう。そこで彼らは元気になっていった、自分を価値あるものだと認めるようになったということなのだろう。それが彼らにとってはまさに癒しでありよみがえりだったのだろう。
圧倒的な力で世を裁く、高いところから世の中を監視しているのではなく、弱く見捨てられた者たちの中にきてくれ、その人たちを大事に大切にしている、そのイエスにメシアを見た、キリストを見た、福音書はそのことを伝えているのだと思う。
マタイもそんなイエスと出会うことで感動し心震わせてきて、その思いを後世に伝えようとして福音書をまとめたのだと思う。自分と同じようにイエスと出会ってほしい、イエスと出会うことで感動し慰められ力付けられて欲しい、そんな思いをもって福音書をまとめたにちがいないと思う。そんな思いも汲みながら福音書を読んでいきたいと思う。そして生のイエスと出会い、このイエスと共に生きていきたいと思う。