礼拝メッセージより
派遣
今日の聖書は10章の最初から続く、イエスが12人の弟子を選び派遣する際に語った言葉の中の一部だ。実際には聖書にあるように長々と話したんじゃなくて、時々に話したことをここにまとめているような気がするけれど。
12人はほとんど名もない、多分教養もあまりない普通の人だった。そんな弟子たちにイエスは、汚れた霊に対する権威を授けたという。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすために汚れた霊に対する権威を授けた。そして「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい、と言ったというのだ。それまでイエスがやってきたことを弟子たちにもやりなさい、そのための力も与えたからと言っているようだ。
本当にそんなことできたんだろうかと思うけれど、彼らのまわりにはそれが必要な人がいたというのは事実だろう。病気になって苦しんでいる人、病気になったことで罪人だ、汚れていると言われて苦しめられている人、そんな苦しんでいる人たちがいたからイエスは弟子たちを派遣したようだ。
イエスは、ただ自分の仲間を増やすため、あるいはお金を儲けるために弟子たちを派遣したのではなかった。今目の前に苦しんでいる人たちがいるから、イエスは弟子たちを派遣したようだ。
今の教会でも伝道は大事だと言う。でもそれは教会を維持するために、教会が栄えるために伝道しようということではないだろう。もちろん教会が大きくなって栄えたら嬉しいけれど。
でもよく考えたらどうして教会が大きくなったら嬉しいと思うのだろうか。あんたとこの教会は大きいねえと言ってくれるからだろうか。よその教会より大きくなったら勝ち組になったように思えるからなのか。
あるいは教会が大きくなって教会員が増えたら、献金も増えてお金の心配ばかりしなくてもよくなるんじゃないか、そして周りの人にも自慢出来るなんて気持ちもないわけではない、というか本当はそんな気持ちがいっぱいある。結局自分のことばかり、自分のために教会を大きくしたい、そのために伝道しないといけないような気になっている。
でもイエスが弟子たちを派遣したのは、自分達のグループを大きくするためではなく、自分の周りに神を必要としている人がいるから、苦しみ悩んでいる人がいるからだろうと思う。神の言葉を、神の声を必要としている人たち、それを聞くことで慰められ力付けられる人たちが自分達のまわりにいる、だからイエスは弟子たちを派遣したのだろう。
恐れるな
しかし弟子を派遣するにあたりイエスは、何でもうまく行くとは言わなかった。いろんな迫害があると言った。狼の中に羊を送り込むようなものだ、なんて言っている。神に従っているのなら、何でもうまくいっていいはずじゃないかと思うが実際はそうではないらしい。願った通りになるわけではない。逆に迫害されるようなこともある。
イエスは、人々を恐れてはならないとか、体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな、むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい、なんてことを言っている。
体も魂も滅ぼすことのできる方はもちろん恐れるけれど、魂を殺すことができなくても体を殺すことができる者どもも恐ろしい。どっちも恐れるよと思う。
魂も体も滅ぼすことのできる方とは神のことだろうけれど、でもここだけ読むと魂も体も滅ぼすことができるから神に従いなさいと言ってようにも聞こえる。神とはそんなに恐い存在なんだろうか、神は言うこと聞かないと滅ぼしてしまうぞと脅かしているんだろうか。
勿論本当は人よりも神を恐れなさい、人よりも神に従いなさいという意味で言っているんだろうと思う。
共に落ちる
そうかと思うと29節以下にはまるで違う話しが出てくる。
二羽の雀が一アサリオン、これは300円くらいらしいけれど、そんな安い値段で売られているけれど、あなたがたの父のお許しがなけれど、地に落ちることはない、という話しをする。あなた方の父とは父なる神のことだろうけれど、ここの原文は、あなたがたの父なしに地に落ちることはない、となっていてお許しという言葉はない。岩波書店から出てる訳の脚注では、「すなわち、地に落ちるときは神が支えつつ共に落ちてくれる」という意味であると書いてあるそうだ。神から離されてひとりで落ちることはない、落ちるときにも神が一緒に落ちてくれるということのようだ。
またあなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられているとも言う。どうやって数えるんだろうか、一本一本数えるんだろうかなんて想像するとちょっと可笑しくなるけれど、私たちが知らないこと、またそんなことまで気付きもしないだろうということまでも神は知っていてくれると言うことなんだろうと思う。髪の毛の数という体の細かなこともそうだけれど、私たちの心の中のいろんな思いも神は知っていてくれているということだと思う。
あの時あんなに楽しかったということや、あの時あんなに嬉しかったということ、そしてあんなに苦しかったこと、辛かったこと、またあらゆる悩みも心配も、ぜーんぶ神は知っていてくれているということだ。
随分昔聞いたラジオの話し。小学生の時に母親を亡くした人の話しだ。頑張って自分を育ててくれる父親を悲しませないために一所懸命辛い顔を見せないように明るく振る舞っていたそうだ。数年経っておばあちゃんが母親を亡くした小学生の頃は本当に辛かったねえという話しをして、それを聞いて分かってくれていたんだと思ってすごく楽になったと言っていた。
苦しみや悲しみや心配を自分ひとりで抱えていると人間は潰れてしまうんじゃないか思う。
そして雀が地に落ちるときも神が一緒に落ちてくれるように、たとえ私たちが潰れたとしてもそこにも神は、イエスは一緒にいてくれるということだと思う。
神を信じているなら成功しなきゃいけないような、教会も成長して大きく立派にしないといけないような思いがあって、なのに全然そうできない自分はどうしてこんなにだめなんだろうかと自分を責める気持ちがある。自分は神から離れて一人で地に落ちていくしかない雀のような心境をずっと持っている。
でも今日の聖書を見ると落ちていくとしても、そこまでも一緒にいてくれる、神なしで地で落ちることはないと聞いてすごくホッとして嬉しい気持ちになっている。落ちちゃいけない、落ちかけている自分は駄目だと思っていたけれど、落ちても大丈夫だとなったら最強だなと思う。
うちの神さますごいなあ、イエスはすごいなあ、と改めて思っている。