礼拝メッセージより
「言葉だけを持って」 2021年1月31日
聖書:マタイによる福音書 9章35節-10章15節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
まとめ
9:35「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあるように、それまでのイエスの活動をまとめている。いろんな所でいろんな病気をいやしたようだけれど、そのことを通して群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見たのだろう。そしてその様子を見て、深く憐れまれた。
そこでイエスは弟子たちに、収穫は多いが働き手が少ないから、働き手を送ってくれるように収穫の主に願いなさいと言ったという。
選び
それに続いてイエスは12人の弟子を選び、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能を授けた。12使徒と呼ばれる人たちをこの時選んだ。そしてこの12人をすぐに派遣する。
働き手を送ってくれるように願いなさいと言ったすぐ後に12人を選んだということは、その働き手としての12人ということかな。
12人を派遣するに当たり、イエスが持っていけといったものはつえとはきものと着るものだけだった。その他のもの、袋も、これは施しを受けるためのものらしいが、帯のなかに金も持つな、また下着も二枚着るな、という。これは当時は身の安全のための重ね着をしたらしいけれど、その下着も一枚だけにということらしい。
派遣
彼らは二人ずつ組にされ遣わされた。彼らは二人きりで旅をしなくてはならない。けれども食物や金はいらないのか。また当時の旅は今の日本とは比べ物にならない危険なものだったようだが、自分の安全を図る必要はないのか。これではあまりにも簡単すぎる、あまりにも少なすぎる、と思う。
当時はそういう宗教的な活動をする人たちを援助するというしきたりがあったという説明もあったので、そういうことを前提としているということかもしれない。
しかし14節には彼らが迎え入れられない時についての指示も与えられていて、その時は足の埃を払い落とせ、と言われている。当時はユダヤ人は旅をして異邦の土地から戻った際、そこでついたと考えられる汚れを落とすという意味で、ちりを払い落としていたそうだ。それに似たような意味合いかなと思う。
そのようにイエスは弟子たちが受け入れられない場合があることを予告している。にもかかわらず、彼らが殆ど何も持たずに旅立たなくてはならないのは何故なのか。その理由は書かれていない。
イエスは弟子たちに、異邦人にではなくイスラエル人に対して「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払えと言う。それはそれまでイエスがしてきていたことだ。イエスは弟子たちにも同じようにしなさい、何も持たないままで出掛けなさいと行っている。
何もない
しかし本当に大丈夫なのかという気がする。彼らは何も持たないで出掛けた。特別な訓練もしていない。特別な才能を持っていたわけでもない。イエスの選びには何の一貫性も見いだせない。
彼らは何も持たなかった。袋も金も、そして才能も訓練も、経験も何もなかった。彼らにあったのは、ただイエスの命令に従って、イエスの言葉とイエスの権威、イエスの力だけを持って出ていった。
そしてこれが教会の原点でもあるのだろう。イエスは私たちにも弟子となることを期待しているように思う。ちょっと待って、と言いたくなる。いや実際いつも言っている。もう少し聖書の知識を持ってから、もうちょっと自由な時間を持ってから、あれが出来るようになったら、これが出来るようになってから、もうちょっと自信をもってから、もうちょっとお金に余裕を持ってから、もうちょっと信仰を持ってから、なんてことを思う。
しかしイエスは、ただイエスの言葉とイエスの権威だけを持って出ていけ、と言われているようだ。さあ行きなさいとイエスは言っているのではないか。あれがない、これがない、あれが足りない、これも足りない、と私たちはすぐに言う。でもイエスはそれで充分だと言っている。何もいらない、み言葉だけがあれば私の弟子だと言っているんじゃないだろうか。
憐れみ
最初に言ったように、イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた、そこで12人を選んで派遣した。深く憐れむという言葉は、腸がちぎれるという意味の言葉だそうだ。
憐れむべき人がそこにいるから、イエスは弟子たちを派遣した。福音を必要としている人がそこにいるからイエスは弟子たちを派遣した。弟子たちにどんな能力があるかなんてことはほとんど問題ではない。むしろ何も持たないで行くように、ただ憐れみと、イエスの言葉、それだけを持って行くようにと言われている。
教会として考えると、人数が多かろうが少なかろうが、お金があろうがなかろうが、そんなことが問題ではない、そこにイエスの言葉があるかどうか、イエスの言葉があれば、それでもう準備OKということなのだと思う。
そしてイエスの命令に従っていたとしても必ず結果がついてくるとは言われていない。誰もが喜んで聞いてくれるとも言われていない。受け入れて貰えないときもある。けれども結果がついてこないから駄目だと考えることもないということだ。
結果にさえも縛られずに、ただ福音を伝えていきなさいと言われているようだ。能力があるとかないとか、結果がでるとかでないとか、そんなことに縛られるのではなく、そんなこともみんなどこかに置いておいて、ただイエスの言葉を伝えていくように、イエスは私たちにもそう言われているのだろう。
そのためには先ず何よりも私たち自身がイエスの言葉に生かされることが大事なのだと思う。イエスの言葉を頭だけじゃなく、体全体で受け止めることが大切なんだと思う。そしてそれぞれの生活の場で、イエスの言葉に支えられて生きていくこと、それこそが宣教なのではないかと思う。